秋分-中国鉄道博物館(その貳)(2018年9月23日 天気晴れ 最高気温 24℃、最低気温 12℃)
ピンチヒッター役を仰せつかった眞田の第二弾です。前回予告いたしました北京のもう一つの鉄道博物館、“東郊館”を紹介いたします。
北京の地図をご覧になって、市街地の北東、北京首都空港の手前に円形の鉄道線が描かれているのにお気づきになった方は多いと思います。これは環行鉄路と呼ばれるの中国鉄道科学研究院の1周9kmの試験線です。今回ご紹介する“東郊館”は、この線路の脇にあります。位置は次の図でご覧ください。
環行鉄路と中国鉄道博物館“東郊館”の位置、天安門の南の赤丸印は前回紹介した“正陽門館”
この博物館は、1978年に鉄道部科学技術館として設置され、2003年に現在の名称となっています。博物館の広い敷地には巨大な展示館が建てられており、多くの実物の車両が屋内展示されています。展示館には直接線路が引き込まれていて、展示車両はこの線路の上を移動して運び込まれています。
中国鉄道博物館“東郊館”の入口、左の建物が展示館
屋外は無料ですが、展示館の入館料は大人20元です。なおこの博物館も老人には優しく、60歳からは半額の10元、65歳以上は無料となっています。
それでは展示館の内部を紹介します。入館するとその内部の空間の大きさと展示されている車両の多さに圧倒されます。中ほどには駅の跨線橋のような展望通路があり、ここから館内の展示車両を一望することができます。次の写真でこの博物館の規模が実感できると思います。
北側の蒸気機関車と客車の展示エリア
南側の電気機関車、ディーゼル機関車の展示エリア
それでは館内の代表的な車両を紹介していきます。
まずは、前回紹介したかつての華北交通の看板列車、北京と釜山を結んでいた急行“大陸”に使われていた客車です。入って直ぐ右手に展示されています。GW97349の車番が付けられていて、パネルでは『1950年代に鉄道部長の滕代遠が使用した公務車』とのみ説明されていますが、これは“大陸”の編成最後尾を飾った一等展望寝台車“テンイネ2”型客車です。南滿洲鐵道(満鉄)の大連工場(旧称:沙河口工場)で1936年に製造されています。「テン」は展望車、「イ」は一等車、「ネ」は寝台車を示す記号です。当時日本国内で走っていた展望車の後端には、開放された展望デッキが設けられていましたが、大陸を走る列車では厳冬期を考慮してこのような密閉型の展望室となっていたとのことです。
急行“大陸”の一等展望寝台“テンイネ2”型客車
ちなみに、急行“大陸”一等展望寝台車の北京-釜山間の運賃ですが、昭和15年(1940年)当時の時刻表によれば106圓25錢となっています。当時の駅弁が50錢、“大陸”食堂車の洋食ランチが1圓50錢となっているので、1圓の価値を現在の1,500円程度とすれば、運賃は約16万円ということになります。二等寝台では約2/3、三等寝台は約1/3の料金になります。
この展示客車の車内には、別料金10元を払えば入ることができます。室内は鉄道部長の動くオフィスとして改装されていて、執務室、寝室のほかにバスルームなどが設置されています。この客車に付けられている記号GWは、公務:GongWuの頭文字です。
この客車に続いて、毛沢東主席の専用車だったYW60959、周恩来首相専用車だったGW97336の内部も公開されています。面白いのは、毛主席専用車がカモフラージュのためか、記号がGWではなくYW(硬臥:YingWo)とされていることです。
毛主席専用車内の執務卓と毛主席の人形
それでは続いて、蒸気機関車展示スペースの代表的な機関車の紹介に移ります。
展示車両の“センター”の位置には、“毛澤東號”、“朱德號”と名付けられた機関車が展示されています。日本の狭軌(線路の幅:1,067mm=3フィート6インチ)の機関車を見慣れた目には、大陸の標準軌(1,435mm=4フィート8インチ半)の機関車は二回りくらい大きく感じられます。太い胴体など実に堂々とした機関車です。
説明プレートにはそれぞれ次のように記されていいます;
毛沢東号(解放型304号): 1941年日本製。鉄道の輸送力が大変不足していた1946年、解放戦争を支援するため、打ち棄てられていたこの機関車をハルビン機関区で27日間昼夜兼行作業で復活させた。これら労働者の共産党への貢献を称えて“毛沢東号”と命名された。1977年に退役し、ディーゼル機関車にその座を譲った。
朱徳号(解放型1191号): 1942年日本製。1946年のハルビン機関区での廃・旧車修復活動により復帰した機関車。1977年退役。
左が朱德號、右が毛澤東號 絶好の記念撮影ポイント
元を辿れば、毛澤東號は1941年満鉄大連工場製の満鉄ミカイ型304號機關車で、修復後は解放型304号となっています。
朱德號は、1942年に日本国内のメーカーで製造された“滿洲國國鐵”のミカイ型1191號機關車で、修復後は解放型1191号となります。日本のメーカーがどこかを特定するには至りませんでしたが、汽車製造、川崎重工、日立製作所または日本車両のうちの一社です。
“滿洲國國鐵”という耳慣れない名前が出てきたのでちょっと解説します。満鉄が所有していた鉄道路線は、旧満州に敷設されていた鉄道の一部、大連-新京(現長春)間の連京線、安東-奉天(現在の丹東-瀋陽)間の安奉線と旅順や營口などに至る支線のみでした。その他の奉天-山海關間の奉山線、新京-ハルビン間の京濱線など多くは滿洲國國鐵(以下満州国鉄)が所有していました。当時は、満鉄の路線を“社線”、満州国鉄の路線を“國線”と呼んで区別していました。また、車両も満鉄所属と満州国鉄所属に明確に区分されていました。しかし、國線の運営や新線の建設は、満州国鉄の創設以来全面的に満鉄に委託されていました。このため、「傀儡國鐵」というありがたくない呼ばれ方もしたようです。
次にKD5型と呼ばれる蒸気機関車を紹介します。先ずこの写真をご覧ください。日本の蒸気機関車に詳しい方なら、一目で日本の機関車と判ると思います。
KD5型373号、紛うことなき形式9600(刻印部の拡大写真は、見易くするため180度回転しています)
このKD5型373号は、もともとは大正2年(1913年)から鐵道院(後の鐵道省、国鉄)向けに770両が製造された9600型、通称“キューロク”です。昭和13年(1938年)以降、中国の華北・華中方面に改軌改造のうえ運ばれた255両のうちの1両に違いありません。この場合の改軌とは、車輪の幅を日本の狭軌(1,067mm)から中国の標準軌(1,435mm)に改造することです。
この機関車の第4動輪、写真中の矢印で示した車軸の端部には、「9659」と刻印されています。この機関車が元「9659號機」であったとすると、大正4年(1915年)川崎造船所(川崎重工業の前身)神戸工場で製造されたことになります。説明プレートによれば1992年南京西機関区に置かれていたものを当博物館のコレクションとしたとなっています。となると、1980年代の華東地区が最後の活躍場所だったようです。
この機関車と通路を挟んだ反対側には、KD55型579号が展示されています。こちらも元はキューロクで、雲南省の昆明からベトナム国境に向かう1,000mm軌間(メーターゲージ)の路線で1980年代まで使われたと解説されています。
この路線、もともとはベトナム・ハノイ(河内)と昆明を結ぶ滇越鐵路でした。フランスの手によりメーターゲージで建設され、1910年に開通しています。新中国建国後は、昆河鉄路となっています。なおこの“河”は河内でなく、中越国境中国側の河口を示します。
中国鉄道博物館の図録などの中国側文件では、滇越鐵路が日本からキューロクを購入したとの記述がありますが、このような譲渡記録が日本側の資料では見つかりません。したがって、日本から標準軌に改軌されて先ず華北か華中に渡り、1950年代昆河鉄路の運行再開の時期に中国の手により再度メーターゲージに改軌されたと見るのが妥当なようです。いずれにしても大変数奇な運命を辿った機関車であることに変わりはありません。
KD55型579号、メーターゲージに再改軌されたキューロク
昭和13年(1938年)の段階で、既に車齢20年を超えていたキューロクが中国向け改軌改造機関車に選ばれ、全体の1/3にも及ぶ両数が大陸に渡った理由についてちょっと触れます。
日本国内では明治末から大正初期にかけて既に敷設された東海道本線などの狭軌路線を標準軌に改める計画について熱い議論が戦わされていました。その時期に設計されたキューロクですが、標準軌への改軌実現を見越して改造が容易に行えるような設計がされていたとの説があります。実際、キューロクの改造にあたっては、機関車の台枠を分解する必要が無かったそうです。また、キューロクはその後の世代の機関車に比べて軽く、線路と路盤の状況が多少悪くとも力を発揮できたからとも言われています。
KD5型とKD55型の軌間の違いが判るように、比較写真を2枚掲載します。標準軌の車両はシリンダー部が外にせり出していて、また台枠と動輪の間の隙間が広くなっているのが写真からお分かりいただけると思います。
KD5型とKD55型のシリンダー部比較
KD5型とKD55型の動輪部比較
蒸気機関車に続いて、次は時代を下り1980年代に日本から輸出された電気機関車を紹介します。
展望通路を挟んで南側は電気機関車とディーゼル機関車が多数置かれていますが、この中に1987年に日本から輸出された6K型電気機関車があります。
6K型002号電気機関車
写真中の銘板に表示されているように、この機関車は、三菱電機・川崎重工連合が製造したものです。1980年代の円借款プロジェクトの一つとして複線・電化増強がなされた鄭州-洛陽-西安-宝鶏間の路線に投入する機関車として同連合に発注された85両のうちの2号機です。6K型の“6”は動輪が6軸、“K”は整流(架線からの交流をモーターを回す直流に変換すること)方式がサイリスタ(シリコン制御整流器=可控硅整流:Kekongguizhengliu)であることを示しています。この機関車は1986年12月に完成し、中国に到着後この博物館に隣接する環行鉄路で各種試験が行われ、1987年11月に洛陽機関区に配属されました。
洛陽(河南省)から黄河に沿って陜西省に至るルートは、三門峡、函谷関などを経由する名だたる山岳路線になっています。6K型電気機関車は、この険しいいルートで2014年まで高い信頼性を発揮しながら活躍しています。6K型電気機関車の技術は後に続く中国国産の電気機関車韶山7型などの設計に大いに活用されたとのことです。
以上で今回の紹介を終えますが、この博物館にはまだまだ多くの歴史の生き証人の車両が展示されています。ご関心を持たれた方は、是非足を運んでみてください。
文・写真=日中経済協会北京事務所電力室 眞田 晃
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