【北京の二十四節気】立秋-天津行-

立秋-天津行(201887日 曇りのち雨 最高気温 30℃、最低気温 24

 先日、天津に行きました。

北京の四恵という長距離バスの発着駅から天津直行バスに乗りましたが、クーラーが壊れているのです。運転手の直ぐ後ろの席にはちょっとこぎれいな服を着たおばさん2人が陣取り、大きな声で盛んに文句を言っています。外は夏の強い日差しが照り、バスのなかは満員の乗客で蒸し風呂状態、そのうえ窓ガラスを割るほどの甲高い声が響き渡り、頭がくらくらしてきました。そのとき、運転手が意を決したようにうなずき、バスを発車させました。

発着駅の目の前は高速道路です。バスはこの高速道路に入ると思いきや、一般道を天津とは逆の方向に走り出したのです。一瞬、バスのなかは蒸し風呂から水風呂に入ったように静かになりました。走ること30分、なんとバスは修理工場に到着したのです。ここでトンカチが始まり、我々は更に1時間の待ちぼうけを喰ったのです。その間、二人のおばさんは得意顔をして扇子をあおいでいます。

新幹線ならば北京南駅-天津駅間120㎞をわずか35分。運賃は新幹線が58元(約1,000円弱)、バスが35元(約600円)、たった20元余(約400円)を惜しんだばかりに、通常の所要時間の2倍の4時間かかってやっと天津にたどり着きました。

 

【天津駅。遊んでいる子供達の足元には天津の地図が描かれている】

 

天津の歴史は、中国の多くの都市に比べれば浅いほうです。600年余り前の明の時代に「天子が出陣した津」ということで、天津と名付けられ、本格的な古城が建設されました。それからは天津衛といわれるほど、北京の前衛基地としての役割を担い、戦火を浴び、列強に蚕食され、新中国になってからも物資や食糧の供給の面で首都の発展を支えました。そのため、天津は、我々とおなじように待ちぼうけを喰い、天津甘栗と天津飯でしか人々の記憶に残らない存在になってしまいました。

そんなかなしい天津ですが、今では数多くの摩天楼が天を衝き、租界時代の建物はきれいに整備され、観光地としても立派によみがえりました。待ちぼうけされたことが、逆に良かったかのようです(こちらもクーラーの修理によって快適な道中となりましたが……)。

今回は観光地天津の魅力を速足に紹介しますので、お付き合いのほどお願い致します。

 

【五大道の観光馬車】

 

五大道は、名のとおり五本の道を総称したものですが、実際は六本あります。なぜ、この名前になったか、よく分かりません。昔からの俗称で、五も六もほぼ同じという大陸的な大らかさ(?)、ということでご了承願います。

※五大道の六道=成都道、重慶道、常徳道、大理道、睦南道、馬場道

この五大道は、イギリス租界の西の端、中国の大臣や貴族が多く住んだ場所だそうです。彼らは見よう見まねで西洋風の住宅を作り、そのほどんどは現存し、一部の建物は1階が瀟洒な喫茶店やブティックに変身しています。これらのしゃれた建物と樹々に囲まれた道を、観光馬車は気持ちよい風を受けて、最初はゆっくり、時には案外速いスピードで駆けていきます。

 

【古城の近くの古文化街】

 

子牙河と南運河が合流し、天津の代名詞である海河となります。この誕生して間もない海河の西岸に古文化街といわれる観光スポットがあります。ここは長さ687 m 、広さ5mの道の両側に風情豊かな商店が軒を連ね、楊柳青という中国画、泥人形、凧など天津を代表する商品が売られています。

 

【静園。手前の人形はラストエンペラー溥儀と皇后婉容】

 

静園は、ラストエンペラー溥儀が1929年から2年間、天津で滞在した住宅です。ここは日本租界の西端、母屋は地上2階、地下1階建て、2階に溥儀と婉容の寝室と書斎が別々にあり、1階に食堂とリビング、そして裏側の日当りの悪い小さな部屋が淑妃である文綉の寝室でした。19318月、文綉は一人でここを離れ、溥儀との離婚を提訴します。一方、溥儀は同じ年の11月、婉容は翌12月、日本軍の誘導のもと満州国皇帝、皇后を目指してひっそり旅立ちました。

 

【張園】

 

張園も日本租界の西端にあります。紫禁城を追われた溥儀が北京の日本公使館から天津に移った1925年、最初に住んだのが張園です。溥儀一行は、ここで4年間暮らし、その後、前述の静園に移ります。彼らが来る前年(1924年)には、北上途中の孫文がここに1ヶ月弱滞在しました。そのため、張園の展示は孫文が中心になっています。なお、張園はこれまで見学不可でしたが、最近になって開放されました。

 

【イタリア租界にあるアンジェリーストリート(中国名:安吉里胡同)】

 

【イタリア租界で出会った似顔絵書き】

 

イタリア租界に来ました。イタリア租界は海河の東岸、解放橋から北安橋の間の小さな区域ですが、今では天津有数の観光地になっています。写真のとおり、イタリア人が好きそうな白色に塗られた洋館が細く曲がりくねった路地のなかに並んでいます。絵のモデルの黒髪の女性はイタリア人と思いますが、残念なことに絵描きは上手くありません。

 

【「世紀の鐘」がある広場】

 

イタリア租界の東端、解放橋のたもとには新世紀(中国では2000年)を記念した「世紀の鐘」という大きな時計のモニュメントが造られています。この広場を5分も歩けば天津駅、天津駅の目の前は観光船の発着埠頭になっています。ちなみに、解放橋は1927年に建てられた天津を代表する開閉橋で、大型船舶の航行のため橋の真ん中が左右に分かれる構造になっています。しかし、1973年を最後に橋は開かれていないそうです。

 

【観光船上からの夜景。後ろは「天津之眼」という観覧車】

 

夜の観光船に乗りました。後ろは「天津之眼」という直径110mの観覧車です。この観覧車、料金が70元(約1,200円)と高いですが、天津市内を一望できるため、列ができるほどの人気になっているそうです。

 

【観光船と高層ビル】

 

こちらは天津の高層ビル群をバックにしました。特に、右側の白い電飾のビルは、「津塔」といって高さ336.9m、地上75階、地下4階、中国華北地域で最も高いビルです。

 

【天津アスターホテル(中国名:天津利順徳大飯店)】

 

宿泊ホテルにやってきました。天津アスターホテルはイギリス租界の東端、海河沿いにあります。天津のイギリス租界の誕生は1860年、3年後の1863年からアスターホテルの建設が始まりましたので、このホテルはまさにイギリス租界の申し子といっても過言ではありません。孫文や伊藤博文など中国や諸外国の歴史上の人物がこぞってこのホテルに泊まりました。旧館タワーの2階には孫文が宿泊した部屋がありますが、このスイートルームは1部屋11万元(約17万円)です。

 

【天津アスターホテルのバー】

 

アスターホテル旧館の玄関には、木製の重厚な回転ドアがあり、その上には1863年と刻まれたプレートが置かれています。玄関の隣には、「O’Hara’s(中国名:海維林)」というバーが有ります。旧館は全体的に歴史を感じさせる木目調に統一されていて、バーも同様に茶色を主体しているために、酒倉にいるような落ち着いた心持ちになります。

遠い国の波止場の一角で、ブルースを聞きながらグラスを傾ける。バスから始まった長いながい1日が更けていきます。

文・写真=北京事務所 谷崎 秀樹

 

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★本コラムについてはこちらから→【新コラム・北京の二十四節気】-空竹-



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夏至-北京の大学統一入試-2018/6/21

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