小暑-智化寺の中国伝統音楽(2018年7月7日 曇りのち雨 最高気温 26℃、最低気温 23℃)
ここには太ったすずめがいました。都市化が進んだ北京では、見かけることは少なくなりましたが……。
【智化寺の山門(正面入り口)】
智化寺は、明朝正統8年(1443年)、宦官(かんがん)の王振によって建てられました。宦官は去勢した男のことで、主として宮廷のなかで皇帝に仕えていました。古くは紀元前14世紀、殷の時代の甲骨文字のなかに、捕らえた異民族を宦官にするかどうかを占ったものが発見されているそうです。それから清朝末までの3千年以上に亘り、彼らは途絶えることがありませんでした。特に、今回紹介する王振が生きた明の時代は宦官の最盛期を迎え、一説ではその数が10万人を超えたといわれています。男性の大切なものを切るとは想像しただけで身の毛がよだちますが、馬や羊とともに暮らし、それらを去勢したり、食用に解体したりするのに慣れた中国人にとって、人間のものを切除するのも朝飯前だったかもしれません。
その宦官の王振は時の皇帝である英宗の厚い信頼を受け、虎の威を借りて政治を壟断し、賄賂をほしいままにして巨額の財を貯えたのです。その財力によって自分のためだけの巨大な寺を建て、さらに紫禁城から門外不出の宮廷音楽を持ち出したのです。その他にもあらん限りの悪行を尽くした人物ですが、彼のおかげで、いま我々は明時代の宮廷音楽を聴くことができるのです。皮肉なことです。
【中国伝統音楽の演奏会に聞き入る人たち】
現在、北京市・天津市・河北省の経済や文化の一体化が進められています。先日、その一環として智化寺でもこの三地域から5つの団体が参加した伝統音楽の演奏会が開かれました。紙面の制約もあり、そのなかの主だったものを紹介します。
【通州区西馬各庄音楽会の面々】
仏僧の衣装をまとった彼らは、北京市内から20~30㎞東に離れた通州区の西馬各庄という村の方々で、1940年代に楽団が結成されたそうです。
彼らの楽器は、写真右から、太鼓、※鈸、※鐃、※小鈸、※笙、※双管、笙、※雲鑼です(楽器の説明は以下※を参照ください)。
※鈸(バツ)=銅製の円盤に大きなくぼみをつけ、二つ打合せて音を出す。くぼみがあるためか、甲高い音がでる。
※鐃(ニョウ、ドウとも読む)=鈸と同じく銅製の円盤を二つ打合せて音を出すが、大きなくぼみはない。そのためか低音ののっぺりした音が出る。
※小鈸(ショウ バツ)=鈸を小さくしたもの。
※笙(ショウ)=十数本の竹の管(笛)を束にして、前面につけられた吹き口から息を吹いて音を出す。様々な音が出せるため重厚に聞こえる。
※双管(ソウカン)=通常は1本の小さな管に、表に7つ、裏に2つの穴を開け、手で押さえて違った音階を出す「管子(カンシ)」と呼ばれる管楽器が使われるが、通州区の彼らは、それを二つ合わせたものを使う。1本でも普通の人では吹いても音を出せないそうだが、2本合わせると更に難しくなる。
※雲鑼(ウンラ)=音律の異なる鉦(かね)を縦・横3個ずつ計9個、更に中央列の上にもう1個、合計10個吊り下げ、叩いて音を出す。ここでも彼らは通常と違って、二つの雲鑼を並べて使っていた。
【双管(ソウカン)を力いっぱい吹く僧侶】
最初に、鈸(バツ)、鐃(ニョウ)といった打楽器が打ち鳴らされ、続いて、双管(ソウカン)と笙(ショウ)が登場します。双管は飛ぶ鳥を呼び寄せるような高く透き通った音がでます。それに合わせて、笙の重厚な音が重なり、雲鑼の空気を切るような金属音が響きます。
彼らは、死者に戻ってこいと、天に向かってその魂を呼びさますように、あらん限りの力で吹き鳴らします。重なりあった音の数々は力強くはありますが、奏でても奏でても見返りがない悲しみを秘めているように聞こえます。
【天津市静海区磚垜(センダ)村音楽会の面々】
白い服に身を包んだ彼らは天津郊外の農村の方々です。楽器は先ほどの通州とほとんど同じですが、真ん中の人だけが違います。その方が持っているのは、鐺子(トウシ)といって、雲鑼の鉦を大きくしたものを一つだけ木の枠にぶら下げています。
先ずは鈸、鐃といった打楽器が威勢よく鳴り出され、続いて、太鼓の早いテンポにあわせて、管子と笙の高く重厚な音と雲鑼の金属音が重なります。全体の構成は通州と同じですが、彼らの曲はリズムが早く、明るく響きます。そこには乾燥した華北の大地で汗水を流して働く農民の収穫への祈りと喜びが込められているかのようです。
【智化殿での宮廷音楽の演奏会】
北京・天津・河北三地域の演奏会のトリを務めたのは、会場である智化寺の楽団です。
一方、智化寺では毎日(但し、月曜日は閉館)、10時と15時の2回、20分間の宮廷音楽の演奏会が行われます。写真のとおり、短時間の演奏会は智化殿の3体の仏像の前で行われます。楽器は、右から太鼓、笙、管子、笙、横笛、雲鑼です。
【智化寺の蔵殿、中に見えるのが轉輪蔵(てんりんぞう)という経典をしまうところ】
彼らの演奏は、宮廷音楽と思って聞くと不思議なもので上品に聞こえます。特に、太鼓は撫でるように優しく叩いて、小さい音を出すのです。それまでの農民や仏僧の楽曲は華北の乾いた空に向かって思い切り叩いたり、吹いたりしていましたが、智化寺のそれは宮廷という限られた空間のなかで、皇帝一人のためのものであったために、音の強弱があるのです。優雅で奥深い楽曲は、500年以上に亘り連綿と伝えられてきた歴史の重さを感じます。
【轉輪蔵の上に安置された仏像と藻井】
智化寺には宮廷音楽の他にもう一つ語るべきものがあります。それは、藻井(ソウセイ)です。藻には模様や綾という意味も有るそうで、天井に作られた美しい絵や模様を藻井といいます。
智化寺の蔵殿のなかには轉輪蔵(てんりんぞう)という高さ約4ⅿ、八角形の経典をしまう蔵があります。その蔵の上には1体の仏像が安置され、天井には藻井が施(ほどこ)されています。この藻井は、赤、青、緑、黄の四色を使って梵字が描かれ、1つの梵字には1体の仏が表されています。
【如来殿に置かれている釈迦如来像(中央)、大梵天(向かって右)、帝釈天(同左)。元来、天井には黄金の藻井があったが、いまは何もない】
智化寺には、蔵殿のほかに、毎日演奏会が行われている智化殿、釈迦如来像が祀られている如来殿、それぞれの天井に黄金で作られた絢爛な藻井がありました。しかし、1930年代、アメリカに持ち出され、いまでは如来殿のものはネルソン・アトキンス美術館、智化殿のそれはフィラデルフィア美術館に収蔵されているとのことです。
【鐘楼の瑠璃瓦に置かれた仙人と獣たち】
宦官の王振は、自身の体を犠牲にして宮廷に入り、悪の限りを尽くして出世し、大金を貯め、現世の極楽を夢見て智化寺を作りました。しかし、この大きな伽藍のなかで黄金に輝く仏に囲まれて余生を過ごすことはできませんでした。正統14年(1449年)、蒙古のオイラト部族を討つため、英宗皇帝を戴き、20万の大軍を率いて出征した彼は、自らの無智と身勝手な指揮により戦いに敗れ、戦死したのです。一説では、彼に恨むをもつ味方の将校によって、混乱に乗じて殴り殺されたともいわれています。
演奏会が終わって、黒色の瑠璃瓦から太ったすずめが灰色に濁った北京の空へ飛び立っていきました。
文・写真=北京事務所 谷崎 秀樹
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