穀雨-孔子廟・国子監(2018年4月20日 曇りのち小雨/重度汚染 最高気温 29℃、最低気温 14℃)
今、司馬遼太郎氏の『草原の記』を読んでいます。
そのなかで、著者はモンゴルを気体のようといい、モンゴル高原の歴史とご自身の渡航を重ね合わせて、透き通った風のような文章を書いておられます。そして、羊が食べる草を求めて遊牧を行うモンゴル人を『ただ奇跡的なほどに欲望がすくなく生きている。』(同書17頁)と表現しています。
【孔子廟大成門の前の孔子像】
北京市内から数十㎞北上すれば切り立った山々にぶつかります。この山々の頂には長城が築かれています。長城を越えて、塞外と昔いわれた地に出れば、もうそこはモンゴル高原です。こんな近くに隣同士で数千年に亘って住んでいるのに、中国人とモンゴル人は全く違うことに驚かされます。欲望が奇跡的なほどすくないモンゴル人がいる一方で、金銭欲が異常に強く、即物的で現実的な中国人がいるのです。
その原因の一つは、モンゴル人が遊牧民族であり、中国人が農業民族だからです。
太古から中国平原で暮らす人たちは、農業を糧としてきました。農業を行うには、田を耕し、あぜを作り、水路を引かねばなりません。まさに農業は土地を拓くことであり、土地を拓くことは自然に抗うことです。収穫した農作物は貯えておかねばなりません。貯えた農作物を少しずつ食べて冬を越し、翌年、残った種子をまくのです。土地にしがみつき、家や倉庫を建て、外敵に備えて城壁を築いていったのです。
【孔子と弟子たちが祭られている大成殿を守る樹齢700年といわれる大樹】
中国古代の王朝である殷(紀元前1600年~同1046年)も、農業国家でした。有名な亀甲文字は占いや祈祷を行うために使われたものです。そのなかで、儒教の「儒」の字は、これら占いや祈祷を行う人、つまりシャーマンを意味していました。
【大成殿の一番奥には孔子の位牌が祭られている。日本で仏壇に祭られている位牌は、本来儒から始まったもの】
農業を行う人々にとって重要なことは、土地を大事にし、土地から得られる富を保ち、伝えることです。祖先から子孫への伝承をよりよく行うために、血縁共同体ができ、更には地縁共同体へと発展していきます。同時に、農業は経験が重視されるため、年を重ねた年長者いわゆる長老が尊敬されるようになります。こうして何百年という長い年月をかけて、共同体で暮らすためのルールが礼となり、父母や年長者への敬意が孝になっていきました。
【孔子廟と国子監の境にある「乾隆石経」という儒教を経典を刻んだ石碑群、合計189基。清朝雍正年間に蒋衡という科挙及第生が12年の時間をかけて62万8千字をしるしたという。うすら寒いものを感じる】
この「礼」と「孝」を集大成して、儒から儒教へと発展させたのが孔子(紀元前552~同479年)です。極端に言えば、孔子はそれまであったルールを集めただけということになります。釈迦が創始者として仏になり、キリストが創造主として神になったのとは異なり、孔子は創始者でも創造主でもなんでもなく、普通の人なのです。普通の人が聖人に憧れ、後世では自らが聖人といわれるようになったのです。
【国子監の広場にて。国子監は、元、明、清の三つの王朝における最高学府であり、教育行政の国家機関であった】
前漢建元5年(紀元前136年)、儒教は国定の学問になりました。そして、科挙が隋代(西暦587年)から始まります。その後、清朝末期(1905年)に終了するまで、科挙は延々と続けられました。
科挙は一般庶民でも受験が可能であり、年齢制限もなく、広く門戸が開かれていました。普通の庶民でも勉強をして、科挙に受かりさえすれば大臣になれるのです。この公平さが科挙の生命力でした。土地毎に方言が違う中国にとって、漢字だけが共通の文字であり、儒教だけが共通の教科書でした。更に、儒教は周辺の民族を呑み込む原動力でもありました。肌や眼の色が多少違っても、漢字を書き、儒教を理解すれば中国人といえたのです。こうして、1,300年間に亘り続けられた科挙によって、儒教は中国人の間に浸透していき、中国の領土拡張の面でも寄与したのです。
【乾隆49年(1784年)に建てられた琉璃牌楼】
時代が経つに従い、「礼」は形式主義の悪弊をもつことになります。冠をかぶり、決められた服装をすれば、たとえ中身が何もない、或いはめちゃくちゃでも、表面上はちゃんとしているように見えるのです。今でも、中国の形式主義は至るところで散見され、我々駐在員を苦しめる要因となっています。
「孝」は順序どおりに敬うということです。日本では「おじさん、おばさん、おじいさん、おばあさん」、ほぼこれだけで事足りますが、中国ではそうではありません。父親の両親や兄弟姉妹、母親の両親や兄弟姉妹、それらの子供(いとこなど)などなど、膨大な数の呼び名がその関係毎に付いています。それぞれの呼び名によって、血の関係が一目で分かり、同時に敬う順序と敬う濃度も分かるのです。実際、中国人の父母や年長者に対する敬愛は日本人以上に深いものがあります。しかし、逆に言えば、この関係以外の人々、つまり他人は生きようが死のうがどうでもよいということになります。孝は、篤い気持ちがある一方、とても冷たい面も秘めているのです。
【「辟雍(へきよう)」といわれる皇帝が講義を行った宮殿。国子監の中心的な建築物であり、上記琉璃牌楼と同じ年に完成】
孔子を「聖人」として崇めるということは、普通の人間でも徳を積めば、中国では聖人になれるということを意味します。孔子は政治について「徳治」、「道徳による政治」を提唱しました。道徳と聞くだけで、何となく人々は納得してしまいますが、では、道徳とは具体的に何かといえば、変えることができるものなのです。道徳は時代の流れによって変わったり、政権運営者の恣意によって、変えることができるのです。そのため、政権運営者にとっては重宝なものです。最終的には、普通の人間である政権運営のトップが「聖人」として君臨することもできるのです。
【辟雍のなかに置かれている皇帝の玉座】
結局のところ、儒教は、三千年という時のなかで、中国人が中国平原で農業を行いながらよりよく暮らすために、中国人自身が形作ってきたものです。そのなかには、宇宙・天文から文学、哲学、受験のための教科書、礼儀作法、家族愛、占いや祈祷、シャーマンなど様々なものが詰め込まれています。自然に抗うという勇ましく強い心から占いや祈祷に頼るという女々しい弱い心までごちゃまぜになっている儒教は中国人そのものになりました。ある面では、儒教が有るおかげで、中国が一つにまとまっているとも言えます。
一方、儒教を批判することは中国人が自らを批判することになります。それは新鮮であり、強烈なインパクトを持っています。近代だけでも、辛亥革命(1911年)、五四運動(1919年)、文化大革命(1966年)など、孔子・儒教は度々批判にさらされました。たった50年前に批判されたものが、今では高く評価されているのです。動乱の際などは批判の対象となるが、世が落ち着き、人々も落ち着きを取り戻せば、中国人自身である儒教は不死鳥のように復活を遂げるのです。
【孔子廟と隣り合わせにある名付け屋】
チベット仏教寺院である雍和宮を背にして、孔子廟・国子監に向かう道は国子監街と呼ばれています。この道の両側には、「名付け屋」といった看板を掲げている店が数軒あります。中国では18歳までの未成年者は、姓は無理ですが、名は簡単に変えることができます。子供が病気がちだったり、周りに不幸があったときなど、心機一転、名を変えます。そのため、「名付け屋」が繁盛しています。これらの店は、名付け以外にも、風水を見たり、占いをしたりするそうです。但し、占いは迷信のため、社会主義中国では表向きは禁止されています。
孔子廟と隣り合わせの場所にこのような店が軒を連ねているということは、殷の時代のシャーマンであった儒が今でも息づいていることを表しています。
文・写真=北京事務所 谷崎 秀樹
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