処暑-前門の斜め道(2018年8月23日 晴れ 最高気温 31℃、最低気温 21℃)
北京の人たちは、方向感覚が驚くほどしっかりしています。道を聞いても、
「この道を東に真っ直ぐ行って、二つ目の信号を北に行ってすぐだよ」
といった具合に答えが返ってきます。レストランでトイレの場所を訊ねても、
「そこを南に曲がって、突き当たりを西に行ったかどにあります」
なんて店のなかで言われても、どこが南なのか西なのか、戸惑うばかりです。
ご存知のとおり、北京の旧城内は紫禁城を中心として碁盤の目のように道が作られています。彼らの方向感覚は、このたてよこ整然とした道のなかで培われたのです。
【楊梅竹斜街で遊ぶ子供たち】
道、といっても、北京ではいろいろな言い方があります。例えば、このコラムでもよく登場します「胡同」をはじめ、「街」、「大街」、「条」(東四三条の条)、そして、今回の主役である「斜め道」(中国名:斜街)等です。日本人の私から見ると、真っ直ぐでも斜めでも曲がっていても道は道ですが、北京の人たちには大きなこだわりがあるようです。この道に対する厳格さ、裏返せば親しみの深さが、我々外国人をはじめ多くの人々を北京の下町へと惹きつけているようです。
【楊梅竹斜街。まさに北京の下町といったところです】
昔から人通りが絶えない前門と書画骨董で有名な琉璃廠(るりしょう)を結ぶ道が「楊梅竹斜街」です。楊(日本語では「柳」の意)、梅、竹と縁起のよい言葉が並んでいますが、『石炭(煤=梅)を焚く(煮=竹)のがうまい楊ばあさんが住んでいた』という本来の意味から、中国語の似通った発音の漢字を入れ替えて名前を付けたようです。
煤(すす)で真っ黒になり、髪を振りみだした楊ばあさんが毎朝この斜街にでて、近所の奥さん連中と歯ぐきを丸出しにして笑いながらうちわを片手に火を熾(おこ)している。そんな姿を想像すると、ちょっとうすら寒く、梅、竹に入れ替えたくなる気持ちが理解できます。
※中国語で石炭は「煤」といい、その発音は「mei」で、「梅mei」もほぼ同じように発音する。同様に、「煮」と「竹」は「zhu」とほぼ同じように発音する。
【楊梅竹斜街のおしゃれな喫茶店】
先ほど話したようにこの斜街は、前門と琉璃廠という二大観光地を結んでいるため、人通りは多く、時おり外国人観光客を乗せた人力車も走ってきます。そのため、道の両側には、昔から続く四合院などレトロな風情を残しつつ、写真のようなおしゃれな喫茶店やレストランもあります。歩いている人も、きれいな洋服を着た観光客がいれば、パンツ一丁のおじさんやパジャマ姿のおねえさんがいたりと、見ているだけであきません。ただ残念なことに楊ばあさんはいませんが……。
【世界書局という出版社跡】
琉璃廠では書画骨董ばかりでなく、紙の卸しも行っていたため、この斜街には、民国当時、多くの出版兼印刷会社がありました。写真の建物は、当時の三大出版社の一つ世界書局の北京分局跡です。世界書局は1917年に上海で設立され、1950年に解散しました。このつたが生い茂る立派な建物は、今では洗濯物が干してある民家となり、暑い盛りに窓を閉め切った隣の平屋からはマージャンのパイをかき混ぜる音が盛んにしていました。
※当時の出版社は印刷・製本まで手掛けていた。
【一尺大街】
楊梅竹斜街の西の端(北京風のいい方で済みません)、言い換えると琉璃廠と境を接する道は、北京で一番短い胡同です。長さはわずか25.23m、民国時代には三軒の店が道の両側にそれぞれあったそうです。その名前は「一尺大街」といい、『一尺(約33cm)ながらも大きな街』と名付けた北京っ子のユーモアと住んでいる人の誇りが感じられます。1965年、一尺大街は楊梅竹斜街に組み込まれ、いまその名称は消滅しています。
【護国観音寺の広場でトランプや中国将棋に興じる人とやじ馬】
大柵欄西街(旧名:観音寺街)を下りてくると、護国観音寺の広場にぶつかります。ここで道は二つに分かれ、右が桜桃斜街、左が鉄樹斜街です。地理的には、楊梅竹斜街の斜め下(南西の方向)に桜桃斜街があり、それに平行して鉄樹斜街が走っています。
やじ馬の後ろが護国観音寺の塀ですが、このなかはフェンスで囲まれ、一部は民家となっているようで入ることができません。外から覗っても、塀は朽ち、屋根の上には雑草が生い茂り、まるで幽霊屋敷のようです。観光地の近くにある旧跡の価値は大きいため、是非、北京市政府等が表に出て修繕、保護していただきたいと思います。
【桜桃斜街にある西単飯店の玄関】
桜桃斜街は日本語に直訳すると「さくらんぼ斜め道」となります。このしゃれた名前の斜街で紹介したいのは「西単飯店」です。西単飯店は当初、「貴州会館」という名前でした。会館とは、同郷の者が科挙の試験を受けに北京に来たときの宿泊施設として作られたものです。例えば、魯迅が北京で最初に暮らした紹興会館は有名です。このように北京には、いろいろな地方の名を冠した会館がたくさんありました。そのなかで、貴州会館は最盛時北京に8ヶ所あり、桜桃斜街のこの会館は老館と呼ばれ、省(日本の県に相当)クラスの会館として、規模、格式ともに最高級でした。その後、貴州老館は西単飯店となり、近年まで長宮飯店という名前でホテルとして営業していましたが、いまでは住む人もなく建物だけが残っています。
【西単飯店のなか】
西単飯店は、2階建てで、真ん中に大きな空間をとり、周囲に8畳ほどの部屋をめぐらしています。盛時、この空間には、珍しい広葉樹が葉を開き、大きな金魚が泳ぐ鉢があり、食事や茶を飲むための丸や四角のテーブルが置かれ、その中を数えきれない人たちが通り過ぎていったはずです。
1913年、蔡鍔(さい がく)雲南大都督という将軍が民国大総統袁世凱によって軟禁された場所がこの貴州会館です。蔡将軍はとてもハンサムだったそうで、彼と遊女小鳳仙とのこの会館を舞台にしたはかない恋の行方は、今でも人々の語り草になっています。
【西単飯店の階段】
蔡将軍が遊女小鳳仙の手を取って上ったであろうこの階段は、いまは利用する人もなくただ寂しくたたずんでいます。
読者のみなさん。現在、西単飯店は閉鎖されていて、中に入れませんし、仮に入ったとしても、そこの管理人から怒鳴られますのでご注意ください。
「えっ、何でこの写真があるかって? 地獄の沙汰も……(自主規制します)」
【鉄樹斜街】
最後の斜め道、鉄樹斜街に来ました。この斜街はちょうど1年前に紹介しました八大胡同(『2017年8月23日処暑』を参照)の西の端にあたり、往時は妓楼や酒家が建ち並んでいました。いまでも美人の産地といわれる江蘇・浙江地域の特徴がある黒瓦を載せた建物が残り、歩いていてもなんとなくつやっぽく感じます。
【鉄樹斜街にある肇慶会館跡】
こちらの建物は肇慶(ちょうけい)会館跡です。肇慶は広東省の中西部に位置し、端渓(たんけい)の硯(すずり)の産地として有名です。このように地方の中クラスの市まで北京に立派な会館を持っていたのには驚かされます。いまは民家となり、中に入ることはできません。
【鉄樹斜街にある北京最初の女性専用浴場跡】
北京では清朝初期(1660年代)に銭湯があったそうですが、男性のみ入ることができたそうです。この男尊女卑を打ち破ったのが名妓金秀卿で、1907年、この場所で女性専用浴場を開きました。しかし、それまで女性はお風呂に入らなかったのでしょうか、気になります……。
文・写真=北京事務所 谷崎 秀樹
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★本コラムについてはこちらから→【新コラム・北京の二十四節気】-空竹-
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