●大雪-磚塔胡同(2016年12月7日 晴れのち曇り 最高気温 8℃、最低気温 -3度)
二十四節季の大雪になりました。大雪は字の通り、雪が激しく降り始める頃を指しますが、今年、北京では前回お伝えしたとおり、小雪の直前に初雪があった以降は、風が無ければPM2.5で空気が悪く、吹けば晴天という日が繰り返されています。
さて、寒露(2016年10月8日)の項で、胡同(hu tong)の東四を紹介しましたが、今回は反対方向にある西四を紹介します。
【左に見えるのは白塔寺】
西四のなかに、元朝から続く古いことで有名な“磚(セン)塔胡同”があります。この胡同には、万松老人塔というレンガ造りの仏塔があるために、この名前で呼ばれるようになりました。万松老人(1167~1246年)は、南宋から元初の曹洞宗の僧で法名を行秀といい、彼の遺骨を安置するために、この塔が建てられました。今では「正陽書局」という古本屋の所有となっており、無料で見学することができます。
“磚塔胡同”には、万松老人のほかに、もうひとり有名な人物が住んでいました。それは中国の口語体小説の生み親である魯迅です。
魯迅は1881年、中国の年号では光緒7年、浙江省紹興で生まれ、1902年、彼が21歳の時、日本に公費留学します。この年は日本の年号では明治35年、ちょんまげとおさらばして随分経ち、日清戦争(1894年)に勝ち、日露戦争(1904年)を控えた時期に、辮髪(べんぱつ)※の青年が日本を訪れたのです。翌年、彼は辮髪を切りますが、結局日本では、恩師の藤野厳九郎教授(仙台医学専門学校)以外、日本人の親友は一人も出来なかったというように、孤独のなかで中国人としての自覚を高めていきます。
※辮髪=清朝を造った満州族の男性の髪型で、頭髪の一部を残して剃り上げ、残りの毛髪は伸ばして三つ編みにして後ろに垂らしたスタイル。清朝は漢族を含め領域内の全ての男性にこの髪型を強制した。
彼は7年間の日本留学を終え、1909年、浙江省に戻り、1912年、中華民国の成立とともに北京に入り、1926年までの14年間、北京で暮らします。
魯迅は、弟の周作人、末弟の周健人の三家族の大所帯で一緒に暮らしていましたが、弟周作人との不和によって、1923年7月“磚塔胡同61号(現84号)”に引越します。この家は30㎡足らずの狭いもので、家探しの時間が無いなかで、慌てて住みついたようです。そのため、直ぐに次の家を探し始めます。次の家は北京市西城区阜成門内宮門口二条19号にあり、今は北京魯迅博物館になっています。
【魯迅の旧居】
“磚塔胡同”の家には7ヶ月ばかり住みましたが、一緒にいたのは彼の母と妻でした。彼が日本留学中に、テレビドラマによくある「ハハキトクスグカエレ」にはまり、急いで故郷に帰ると、母の決めた3歳年上の同郷の貞淑な女性朱安が待っていたのです。魯迅は騙された気持ちのまま結婚したために、妻に対する感情は冷めていたようです。実際、魯迅はこの足の小さい(纏足という中国の風習)妻を自分の妻ではなく、母の妻と見なしていたようです。挙句、1926年、彼が45歳のとき、当時の段祺瑞政府を批判したことにより、彼は追捕されます。そのとき、17歳年下の教え子許広平とともに、厦門に逃れ、その後、広州、上海に渡ります。最後の地上海で、魯迅は許との間に男の子をもうけますが、1936年、享年55歳にて急逝します。この間、妻は北京でずっと彼の母親の面倒を見つづけ、二人で魯迅の死を知ることになります。
【魯迅旧居のなかの狭い通路】
魯迅は北京時代に代表作『吶喊』をはじめ後世に残る作品を多く書きました。『吶喊』という本の題名そのまま中国庶民の意識を改めるために、体中から苦しい叫び声をあげながら文字をつづったに違いありません。
しかし、魯迅が救おうとした中国の無知な人々のなかで、最も代表的な人は、彼の母であり、纏足の妻であったはずです。彼は最も身近にいる人々を救おうとせず、まるで過去の伝統という亡者を恐れ、憑りつかれることから逃げるように、北京を離れたのです。
【魯迅旧居の中にある奥に入ったところの左側の部屋】
今、彼が住んだ家は時が経ち古くなり、地方からの出稼ぎ労働者が住み付いています。家の後ろは取り壊され、ガレキの山となっています。
【正陽書局の中で女の子が猫と遊んでいました】
文・写真=北京事務所 谷崎 秀樹
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