●春分-新華門の白玉蘭(2017年3月20日 曇りのち小雨 最高気温 12℃、最低気温 6℃)
春分です。今日は昼と夜の長さがほぼ等しく、これから日が長くなりますので、少し弾んだ気持ちになります。
【北京ではレンタル自転車が流行っています。長安街から中南海を撮りました。奥の等間隔に白い花を咲かせた木が玉蘭です。】
さて、中南海という言葉は、日本でもほとんどの方が聞いたことがあると思います。ここは中国の指導者が住み、中国共産党や中国政府(国務院と呼ばれる)が所在する中国のなかで最も重要な場所です。毛澤東が新中国成立(1949年)の直前から終の棲家としたことでも有名です。中南海は、北京の中心である故宮の西隣にあり、天安門を合わせた故宮とほぼ同じ長方形の形をし、面積は100万㎡に及びます。国家指導者が住むところですから、高い塀に囲まれ、要所要所に警官や軍隊が警備しています。故宮には中国内外の観光客が毎日何万或いは何十万と来ますが、一歩隔てた隣の道には知ってか知らずか来る人は少ないため、警備の厳しさが余計に目立っています。
そんな中南海ですが、春が実感できる気候になると、中南海の南の入り口である新華門の一帯、つまり長安街との道沿いに、白い花が暗い冬が終わり、明るい春が訪れたことを告げるように可憐に咲くのです。この時だけは、北京の人々も沢山この警備の厳しい場所を訪れ、楽しそうに写真を撮ります。日本人的には、屋台でも出して、焼きそばやたこ焼きをビールと一緒に売れば儲かると思いますが、さすがにここで手を出す中国人はいません。
【中南海の南門である新華門】
この白い花は玉蘭(玉蘭花とも言います)といい、白い花のものは、その純白さから特に白玉蘭と言います。北京では春分前から咲き始め、日本の桜と同じように、先に花が咲き、そのあと緑の葉が顔を出します。
【白玉蘭】
実は、北京に駐在してから、どなたか忘れてしまいましたが、中国の方から、新華門の白玉蘭は朱徳が亡き妻を偲び植えさせたものであると聞きました。
朱徳(1886-1976年)は、23歳で雲南陸軍講武堂に入学(1909年)してから辛亥革命(1911年)に参加するなど戦争の経験は豊富でしたが、共産党には37歳の時(1923年)に、周恩来の口添えによって入党を許可されるという共産党員としては遅咲きの人です。その後、ドイツ、ロシアで学んだ軍事技術を生かし、得意のゲリラ戦によって敵である国民党から「朱毛(朱徳と毛澤東)」と恐れられました。朱徳は、ゲリラ戦は出来ましたが、政治が分からなかったために、7歳年下の毛澤東の風下に立ちます。朴訥、長者の風のある彼は、毛澤東に従うことで栄達し、新中国では元帥となり、国家副主席まで務めます。文化大革命で批判されますが、毛澤東の庇護を受けました。
【薄いピンク色が入った白玉蘭】
朱徳は生涯5人或いは6人の妻を持ったと言われています。これらの妻達のことを紹介しますと大変ややこしくなりますので割愛しますが、玉蘭が好きだったのは最後から2番目の妻である伍若蘭です。朱徳は1927年南昌蜂起に参加し、翌年湖南に進出した際22歳の伍若蘭と出会い結ばれましたが、翌年年初、彼女は包囲された朱徳を救うための戦闘中に足に弾を受け、国民党の捕虜となり、さらし首になります。
朱徳は伍若蘭の死を悲しんだに違いありませんが、彼女が死んで一年も経たないこの年(1928年)の年末に、康克清と彼にとって最後となる結婚をします。このとき、新郎である朱徳は43歳、新婦は17歳でした。
日々に戦闘があり、転戦を繰り返す当時の事情を思えば、人の死を悲しんでばかりはいられなかったのでしょう。しかし、26歳も年上の中年男性に嫁ぐ17歳の新婦には、どのような気持ちが去来したのでしょうか。
1949年、中国共産党が天下を取り、元帥となった朱徳は、自分の膝元である中南海の道沿いに、亡き妻伍若蘭が好きであった白玉蘭を植えさせました。これは一つの美談であるかもしれません。しかし、中南海に住んで、毎日通る道沿いに、自分ではなく、先妻を偲んで植えられた白い可憐な玉蘭を見る康克清の気持ちはどのようなものであったのでしょうか。
【白玉蘭を見に訪れた人々】
康克清に更に悲劇が襲います。朱徳は1976年に亡くなりますが、その7年後の1983年、朱徳の孫朱国華が銃殺刑に処せられたのです。朱徳と康克清との間には子供がなく、処刑された朱国華は朱徳と別の妻との間に出来た男子の子供でした。この年、中国では“厳打”という刑事犯罪活動や社会治安を脅かす犯罪者に対する厳重な取締りが行われました。このとき、孫の朱国華は、大学を卒業したばかりで天津の鉄道部門で働いていました。彼は血筋が良く、姿かたちも良いということで、複数の女性と交際し、一部では性的関係もあったという理由で逮捕されました。現在の中国では、このようなことが犯罪に、それも極刑に当たるとは思いませんが、1983年においては天津市高級人民裁判所が死刑判決を出したのです。その執行の可否を問う書類は、当時の最高指導者である鄧小平のもとに届きます。鄧小平はその書類を黙って康克清に回し、彼女の意思を求めたのです。ここら辺は中国が法治ではなく、人治の国であることが分かるところですが、サインを求められた彼女はどのような思いがあったのでしょうか。その孫は、夫である朱徳の直系の孫であり、彼女がサインすることは、その孫に対して引き金を引くのと同じことです。しかし、サインしなければ、夫である朱徳の名誉も、一族の名誉も全て地に落ちるのです。
【玉蘭とともに春に咲く花=聨翹(lian qiao)】
康克清はまだ中国共産党が天下を取る前の時期と思いますが、以下のことを語っています。
「私は総指令(朱徳)のために、ご飯を作ったこともなければ、衣服を繕ったこともありません。彼には彼の警備兵がいましたから……。」
文・写真=北京事務所 谷崎 秀樹
★本コラムについてはこちらから→【新コラム・北京の二十四節気】-空竹-
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