満州豆稈パルプ株式会社(以下、満州豆稈パルプ)についてのエピソードも3回目となりました。前回に引き続き「昭和の妖怪 岸信介」との縁を探っていきます。酒伊繊維工業株式会社(以下、酒伊繊維)の社史を読むと、酒井伊四郎社長(以下、伊四郎社長)と岸信介との縁は、福井県人脈を介した商工省中堅官僚時代から始まっています。渡満した昭和11年(1936)10月以降も、満州国国務院産業部次長として満州の産業振興「産業開発五ヶ年計画」に辣腕を振るう中、中核事業の一つであったパルプ事業の満州豆稈パルプ案件でパイプを太くし、社史曰く「昵懇の関係」となったようです。
岸信介は、昭和14(1939)年10月に帰国後、商工省次官、東條内閣商工大臣と栄達の道を驀進しますが、事あることに伊四郎社長は岸信介を頼った形跡がありました。浅からぬ縁の証左として、戦時中の物資動員のすべてを取り扱う極めて強大な立場にあった岸信介商工大臣が、昭和17年(1942)4月23日にわざわざ福井に来て同社を訪問しています。何故に戦時下の福井訪問だったのでしょうか。
酒伊繊維の記録を読んでいると、「信心深い伊四郎社長を神仏が守ってくれた」、「満州豆稈パルプは、その創設から売却までまさに『神がかり』と言ってよい事業であった」との記載があり、下記の局面で「幸運の女神」がついていたことを感じました。特に、8月15日敗戦直前の満州豆稈パルプの譲渡は、偶然と言うには余りに神がかり的なタイミングです。確証はありませんが、伊四郎社長には「天の声」が聞こえたのではないでしょうか。
【第1の幸運:皇室への献上品】
昭和17年(1942)に挙行された満州国建国10周年祭の答礼史として満州国張景恵国務総理が来日。満州国から日本皇室への贈答品として、満州豆稈パルプの原糸を酒伊繊維にて製織した裏朱子紋縮緬(サテンバック)が献上されました。当時の国策であった日満一体をまさにシンボライズした贈答品であり、昭和17年(1942)3月16日、帝国ホテル貴賓室にて、張国務総理への納入式が伊四郎社長によりに賑々しく行われました。戦前の皇室献上とは、これに勝る栄誉はなく、満州でも日本での関係者は斎戒沐浴して製造し、また納入式の伊四郎社長の生涯最高の感激ぶりが記録に残されています。3月17日にこの献上品は、宮中にて満州皇帝溥儀名で天皇へ献上されています。この時点では、岸信介は既に満州を離れていますが、商工大臣として献上品の決定には大きな影響力を持っていたと推察できます。帰国から半年、未だ晴の納入式から興奮冷めやらぬ1ケ月後のタイミングでの福井訪問は、単なる表敬訪問だったのでしょうか。
【第2の幸運:小浜工場の譲渡】
昭和18年(1943)、商工省のスフ紡績の整備統合策により、人絹一貫生産の重要拠点であった酒伊繊維小浜工場を整備統合せよとの命令が来ました。その際に、伊四郎社長は在満当時から関係があった岸信介商工大臣に面談を申し入れ、直接指導を仰いでいます。岸信介大臣は、①工場の外地移転、②工場の軍需転換、③工場の統合の3案を示し、伊四郎社長は工場を存続させる③案に向けて、日東紡績と交渉していました。しかし、戦時下の切迫する時局の圧力により、首都圏から疎開する芝浦製作所(現在はニディクテクノモータ工場)への譲渡が急遽決まり、その受け渡し完了は昭和18年(1943)8月末という性急さでした。譲渡価格は建設価格430万円の約3倍の1,260万円で売却されています。投資額の3倍という高値での処分となり、資金枯渇の状況下「干天の慈雨」と社史に表現され、酒伊繊維が軍需産業転換するための資金源となりました。当時の戦時統制下では、100万円以上の売買には政府機関が介在して資金が凍結されるのを間一髪で免れた幸運もありました。
【第3の幸運:満州豆稈パルプの譲渡タイミングと譲渡金額】
豆殻から人絹(レーヨン)用パルプを製造するために設立された満州豆稈パルプですが、違った見方もあったようです。「朝鮮・満州の思い出―旧王子製紙時代の記憶・1975」によると、「満州豆稈パルプは大豆の殻を原料としてクラフト・パルプを作る目的とし、経営は筆頭株主の酒伊繊維が担当した。しかし、豆殻を材料とした生産は技術的に困難を極めた。そのため、やむなく木材を原料とするクラフト・パイプ生産に切り替えたが、生産量がなかなか増加しないため、敗戦直前の1945年8月1日に酒伊繊維に代わって王子製紙が経営を委託された」とあり、酒伊繊維側の記載とは違っています。これには、昭和20年(1945)になって、満州国の紙幣印刷に使うための強靭な紙を漉くために、クラフト・パルプ生産が至急求められていたという事情がありました。しかし、当初から満州政府は、いざとなればクラフト・パルプに転用できるとの思惑があった可能性もあります。王子製紙の名前は、木材ではなく葦を原料として製紙用パルプを製造する目的で設立された「錦州パルプ株式会社」の出資企業としても出てきますが、岸信介にとって距離の近い企業であったようです。
昭和20年(1945)、満州国政府は、満州豆稈パルプに対して、さらに大量のクラフト紙増産指令を出しています。当時、レーヨンパルプの生産を廃止して、製紙パルプ生産に切り替えてから時間が浅く、漸増の折衷案で伊四郎社長が満州に飛んで直接交渉したところ、急遽満州国政府への譲渡の要請があったとのことでした。昭和20年(1945)7月20日、B29‐120機による福井市大空襲のため、酒伊繊維の多くの工場が被災した翌7月20日に、満州豆稈パルプの役員会は、同工場を満州国政府に売却することを決定しています。何と終戦の1か月前です。終戦後、伊四郎社長は日本の敗戦を事前に知って一切を処分したのだと称える人もいた一方で、満州で見殺しにされたと憤慨した従業員もいたそうです。昭和20年(1945)の時局では、それは断ることができない国家命令であったと思います。人絹一貫生産の夢を乗せた満州豆稈パルプを手放すことを決定した役員会で伊四郎社長唯一人反対であったことからも、如何に無念であったかが想像できます。
結果的には、満州の工場はソ連軍に接収され、5年余の大陸雄飛は「一炊の夢」と消えましたが、満州国政府からは1株50円を3倍の150円で譲渡されました。昭和20年(1945)8月の終戦前後の混乱期の譲渡代金4,500万円を現在での貨幣価値に換算するのは難しいですが、参考として日銀の企業物価指数では258倍で116億円と巨額となります。米価換算では更に評価額は増大します。「株式譲渡の支払いは福井銀行本店で実施され、その完了と同時に終戦と迎えており、間髪を容れぬ処理であったことは、全株主にとって幸なことであった」と社史には記載されています。しかし、終戦後の混乱期に果たして代金決済がなされ、出資者に還元されたかは不明です。社史には「相場の3倍」と破格の価格とのニュアンスですが、時局緊迫した当時精緻なデューデリジェンスをする時間的余裕も無く、「エイヤッ」の3倍だったかもしれません。しかし、「満州企業研究」によると、満州豆稈パルプは昭和17年度(1943)から昭和19年度(1944)まで毎期当期利益を計上しており、50万坪の土地と設備を併せて十分4,500万円の価値があった可能性が高いと推測しています。
【エピローグ:戦後の岸信介復活のきっかけ】
戦後昭和24年(1949)に、東洋パルプ株式会社という会社が、広島県呉市の海軍工廠跡地に設立されています。初代会長は岸信介で、取締役には、足立正(元王子製紙社長)、永野護、津島寿一、小林中などの政財界の大物が就任して、まるで組閣できるような陣容から「東パル内閣」と言われたそうです。その後、経営不振に陥り、1981年に王子製紙が経営参画し、1989年に吸収合併されました。満州にも同じ名前の東洋パルプという会社が存在していました。これも王子製紙系で昭和11年(1936)9月11日設立。払込資本金500万円。偶然に同じ名前だったのでしょうか。満州国政府は、満州の木材を活用したパルプ製造事業に興味をもち、昭和11年(1936)から昭和14年(1939)の間に満州豆稈パルプを含む7社を設立しています。いずれも払込資本金が500万円から750万円と巨額の投資がなされています。その設立時期は岸信介の在満期間とピタリ重なります。
戦後の岸信介は、昭和20年(1945)9月にA級戦犯として巣鴨拘置所に昭和23年(1948)12月まで収監され、その後公職追放中は上記東洋パルプで雌伏の時期を送っています。やはり、満州での王子製紙のパルプコネクションが岸信介を支えていたのです。昭和27年(1952)年4月のサンフランシスコ講和条約の発効により、公職追放解除となるやいなや政治活動を復活し、昭和32年2月に第56代内閣総理大臣となったことは周知の通りです。
今回の昭和の大物政治家岸信介と福井の繊維会社酒伊繊維工業社長酒井伊四郎を経糸に、満州豆稈パルプを緯糸として綾なすストーリー。まだまだ調査する余地はありそうですが、紙面を大幅にオーバーしました。本話題は今回にて一応の完結とします。
福井大学 大橋祐之 (2024年8月)
【参考資料】
・酒伊繊維三十年の歩み(1964)
・酒伊繊維四十年の歩み(1974)
・挑戦への道 酒伊繊維工業株式会社目で見る100年(1991)
・ああ満洲豆稈パルプ(1936)
・満州企業史研究(2007)
・満州裏史(2011)