【日中不易流行】『福井最古の中国大陸進出「満州豆稈パルプ」②』

前回に引き続いて「満州豆稈パルプ株式会社」についてのエピソードを紹介します。前回提起した第一の謎、「福井の一繊維会社である酒伊繊維工業株式会社(以下、酒井繊維)と満州進出を結んだ糸は何か?」について述べたいと思います。なお、名前の敬称は略させていただきます。

【市橋保治郎から広がる人脈】
当時、人絹(レーヨン)原糸製造会社は、東洋レーヨン(現東レ)、帝国人絹(現帝人)、日本レーヨン(現ユニチカ)の3社がメインであり、原料パルプはイタリア等からの輸入に頼っていました。その頃、福井は全国の人絹原糸総消費量の60%を占める「人絹王国」と呼ばれていました。酒伊繊維の酒井伊四郎社長(以下、伊四郎社長)は、これら3原糸メーカーの利益が年間150百万円(現在価格約1350億円)で、福井から原糸メーカー3社が得る利益は年間90百万円(現在価格約810億円)と試算。福井に原糸工場を作れば、県外へのキャッシュアウトを防ぎ、故郷に大きな貢献をもたらすとの愛郷精神がありました。また、日本が国際連盟を脱退して国際的に孤立していく状況下、パルプの輸入が先行き難しくなるということは当然予想され、いわゆる経済安全保障上、代替の新たなパルプを探す必要があったのです。

さて、天恵と言うべきか、当時敦賀の在野の研究者吹田儒が竹、わら、葦、もみ殻からパルプをつくる研究をしていました。その吹田氏を招聘して、豆から(大豆稈)から人絹用パルプを製造する技術開発に新たに取り組むことになり、原糸製造を内製化という夢の実現へ動き出すことになったのでした。これらを資金面のみならず福井人脈を駆使して物心両面に支援したのが、福井銀行頭取であった市橋保治郎(以下、市橋頭取)でした。

市橋頭取は、福井銀行の創立者であり、大正7年(1918)頭取に就任。福井の繊維産業の発展に尽力した福井財界の傑出した大物で、福井出身の岡田啓介海軍大将(昭和9年~昭和11年総理大臣)をはじめ、中央政財界とは豊富な人脈をもっていたことは「市橋保治郎翁伝」(昭和19年刊)に書かれています。

【岸信介につながる人脈】
伊四郎社長と市橋頭取との関係は昭和元年(1926)頃までさかのぼります。当時絹織物(羽二重)の自家精錬の許可問題(従来は京都の精錬加工場へ織物を送って加工)を監督していたのは、商工省工務局長の吉野信次(「民本主義」の吉野作造の実弟、昭和12年商工大臣、昭和13年満州重工業開発副総裁)でした。市橋頭取は、自由に自家精錬ができるようにしたいとの伊四郎社長の強い熱意にほだされて、関西財閥の神様と言われた結城豊太郎(後の日本興業銀行総裁、大蔵大臣、日本銀行総裁)を紹介し、さらにそれが吉野信次商工省工務局長への人脈に繋がりました。市橋頭取の強力なバックアップにより、昭和4年(1929)2月、時の商工大臣、中橋徳五郎は伊四郎社長に輸出絹織物に関しての自家精錬を許可。この一連のロビー活動が伊四郎社長と商工省官僚との人脈形成のスタートとなりました。この時点で、その後「昭和の妖怪」と呼ばれた岸信介はまだ吉野信次局長下の一官僚でしたが、既に伊四郎社長とは浅からぬ縁があったようです。後日談として、昭和7年(1932)に人絹王国となっていた福井に日本で唯一の人絹取引所が開設された際、当時商工省の官僚であった佐藤栄作(岸信介の実弟、後の総理大臣)を酒井伊三男(伊四郎の実弟)が訪問し、「酒井(伊四郎)さんの弟さんでしょう。うちの母が亡くなった時には、お兄さんにはお世話になりました。」と岸信介と伊四郎社長の縁に話が及んだというエピソードが伝わっています。目先が効き商才に長けた伊四郎社長の事ですから、将来有望な新進気鋭のエリート官僚岸信介に先手を打っての密接な関係を構築していたのではないでしょうか。

【満州で広がる福井人脈】
話は、昭和11年(1936)に戻ります。豆稈パルプの試験的な成功は、人絹生産の飛躍的な拡大への可能性を示すものでした。そして、その事業化の場所として満州が選ばれたのでした。日本国内で人絹糸を生産することには、既存の大手原糸メーカーとの軋轢もあり、新参者としては色々制約があったことは推察できます。当時の時流の中では、「大陸に雄飛」するスローガンの元、満州は新天地だったでしょう。また、伊四郎社長は市橋頭取の助言に従って、前商工大臣の吉野信次の意見も求めています。かつての部下の岸信介は、昭和11年(1936)10月に満州国国務院実業部総務司長に就任と言う絶妙のタイミングでした。さらに、福井県出身で満鉄中興の祖と言われた山本条太郎は、昭和2年(1927)から昭和4年(1929)まで総裁を勤め、その縁もあり満州で要職を務める福井県人は多かったそうです。その後も、大村卓一が昭和14年(1939)3月から昭和18年(1943)7月まで総裁を務め、同時期の理事の中西敏憲(戦後、福井県衆議院議員、武生市長)と頼もしい福井人脈を形成していました。清水巳之輔豆稈パルプ工場長の「満州豆稈パルプ思い出」では、吉野信次、松岡洋右、岸信介による満州への誘致があった、と回顧しています。

満州には戦略的な天然資源が多くありましたが、大豆という農作物は中国大陸にとって極めて重要なものでした。大豆は食料になります。油も搾れます。油を搾ったあとの大豆粕は極めて良質な肥料・家畜飼料として欧州・日本に輸出されました。大豆は満州の肥沃な土地に永年蓄積された有機物そのものでした。さらに従来燃料としてか使われていなかった豆から(豆稈)から人絹パルプや紙パルプが製造できるのは、大豆の全てを無駄なく活用するまさに「夢のプロジェクト」であったのではないでしょうか。

【岸信介との浅からぬ縁】
昭和11年、伊四郎社長は満州に渡り、大連の満鉄本社へ豆稈パルプ製法を持ち込み、事業化を申し込んでいます。その時力を発揮したのは、満州国政府の産業部に勤務していた岸信介からの知遇や福井人脈でした。満鉄中央研究所で、事業化への慎重な試験が行われたのですが、当時の満鉄中央研究所次長の志方博士は、豆稈パルプには反対の立場をとっていました。しかし、岸信介の後押しもあり、1年後、研究所所長丸沢博士により「満洲の国策的産業として、事業化を成すを可とする」というゴーサインが出たのです。そこには伊四郎社長と満州政府や満鉄本社との粘り強い交渉がありました。

岸信介は、昭和11年(1936)満州に赴任し、昭和12年(1937)7月に産業部次長、昭和14年(1939)3月には国務院総務庁次長と順調に出世の階段を上って、満州「産業開発五ヶ年計画」に辣腕を振るって行きます。総務庁次長は、各部を統括するナンバー2で、産業行政を指揮する実質上のトップ。満州で岸信介は重工業の開発だけに心血を注いだ訳ではありません。高橋是清が満州に赴任する官僚に語ったように、満州の大地は伝統的に「満洲大豆」の産地として知られており、岸信介は戦略物資である大豆に係る豆稈パルププロジェクトも彼の野望の中に組み込まれていたと考えます。また、岸信介は満州に積極的展開していた王子製紙グループと関係があり、紙パルプには関心があったはずです。さらにその後の展開から言えば、豆稈パルプの人絹製造から紙幣製造に必要なクラフト紙製造へ転用する可能性に関するデータを満鉄中央研究所から取得していたのではないか、と邪推してしまいます。昭和の妖怪ならそれぐらいの予知能力があったかもしれません。

そして、昭和12年(1937)年9月3日に満州豆稈パルプ株式会社が設立されます。資本金1000万円。当時酒伊繊維本社の資本金が同じ1000万円。満洲国100万円、満鉄100万円、満洲興銀100万円が出資する準国策会社としての華々しいスタートとなりました。昭和15年(1940)の工場稼働から昭和20年(1945)の工場売却まで、更に終戦後の引揚げとこれから幾多の困難が待ち受けていますが、それはまた別の話となります。

岸信介は昭和14年(1939)10月に帰国して、商工省次官に就任し、昭和16年(1941)10月東条内閣の商工大臣として入閣を果たしました。戦時下の商工大臣は物資・動員のすべてを扱う最強の立場にありましたが、伊四郎社長との縁は続いていました。ミッドウェイ海戦の前、まだ日本が戦勝気分だった昭和17年(1942)4月に岸信介は、福井にやってきて酒伊繊維本社を訪問しているのです。何のための福井訪問だったのでしょうか。

「妖怪岸信介を育てたのは満州」と言われています。岸信介の商工省での雌伏と満州での雄飛。そこに福井の企業が関わっていたのは驚きでした。まさに「天の時、地の利、人の和」を感じます。「政治資金は濾過機を通ったきれいなものでなければならない」と満州を離れる際に岸信介は言ったそうです。岸信介の多くの濾過機の中で、この福井県人が命を懸けたプロジェクトも彼のフィルターの一つであったのではないか、とまた想像の世界が広がっています。字数が大幅にオーバーしました。これ以降の話を次回にしたいと思います。               

  福井大学 大橋祐之(2024年6月)