【日中不易流行】『楊貴妃若狭漂着伝説と阿倍仲麻呂』

前回12月の掲載から一週間後12月17日の地元紙「福井新聞」を読んで、思わず声を上げてしまいました。毎週日曜日に愛読している「ふくい日曜エッセー 時の風」に「楊貴妃が来ていた?」と「阿倍仲麻呂『小浜へ』計略か」と大きな見出し。同人誌「ふくい往来」編集代表の栗波昭文氏が、まさに楊貴妃小浜漂着伝説についてエッセーを書かれていたのでした。なんというタイミングでしょうか。「私の方が早くて良かった」と正直思いましたが、一方で阿倍仲麻呂という歴史上の超大物がこの物語に絡んでいたことに驚きました。前回でこの話題を収束させるつもりでしたが、まだ新たな展開があったので紹介します。
以下、2023年12月17日、福井新聞掲載の阿倍仲麻呂に関連した部分の引用です。

『ここからは阿倍仲麻呂がキーマンとなる。仲麻呂は、717年、遣唐留学生として15歳で入唐。長安の大学で学び、唐朝に仕官した。玄宗に寵遇され、いくつもの重要な位に就き、側近として宮廷生活をともにした。733年、遣唐使にしたがって帰国しようとしたが唐朝は離さなかった。753年、ようやく帰国の途についたが難破し、安南に漂着。また長安に戻った。唐内が危急存亡の秋(とき)にあったのは、ちょうどそのころである。

玄宗、楊貴妃、仲麻呂らは対策を練った。(注①)反乱軍は北の方から襲ってくる。逃れる方角は南。玄宗らの一行はひそかに長安から四川(蜀)へ向かう。国忠は途中、馬嵬(ばかい)(陝西省)で従士によって殺害された。

安禄山の狙いは、楊一族の一掃だった。楊貴妃も同族なので無事では済まない。また四川出身の楊貴妃が一緒であれば敵方に知られる恐れが強い。そこで、自殺に見せかけた雲隠れの謀(はかりごと)が巡らされた。

西は山岳地帯で異民族の地で不可。国外に行くなら日本しかない。長江(楊子江)の支流を東に下れば河口に出る。後は遣唐使の航路で日本へ。遣唐使船は対馬海峡を通り、瀬戸内海に入るが、そのまま日本海を渡って陸地沿いに進めば若狭湾である。瀬戸内海は海賊が出没、民間の船を略奪するので極めて危険だった。矢代は古来、湊(みなと)としても栄え、多くの渡来人が来ている。また、秦氏や安倍氏の一族もいた。矢代に上陸すれば陸路、奈良まではそう遠くない。(注②)平城京でどう振る舞うかについても、手はずを整えた―。

楊貴妃は歴史の上では自殺に追い込まれた。しかし中国の民衆の間では、楊貴妃は死なず、日本に渡ったと語り伝えられていることも事実なのである。

仲麻呂は玄宗と行動をともにし四川に逃れた後、767年長安に戻った。楊貴妃が待っているはずの奈良の都への帰国の機会をうかがっていたが、770年に没してしまう。在唐54年に及んだ。安禄山は反乱の翌年、第2子の慶緒に討たれているが、乱の鎮圧は8年後だった。玄宗は757年に長安に帰還し、762年に没した。

一方、矢代に入港した唐船には、思わぬ遭難があったとされる。(注③)入港の50年後、船の残片で観音堂が建立され、船中にあった聖観音が安置されたという。』

引用が長くなりました。なお、太字と番号は筆者です。全文については、以下のWEBをご覧ください。https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1941778
具体的な根拠の明示はなく、その信憑性については言及できませんが、話がここまで繋がると痛快さすら感じます。しかも、状況的には全くあり得ない話ではありません。

百人一首の「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」で有名なあの阿倍仲麻呂。717年に第9次遣唐使として唐の長安に留学。科挙に合格して玄宗皇帝の元で高官にまで上り詰め、玄宗に気にいられ生涯を唐で過ごし、770年73歳の生涯を閉じています。当然ながら、安禄山の戦い(755年~757年)の時も、一度帰国に失敗して漂着したベトナムから755年に長安に戻って、玄宗や楊貴妃の近くにいたはずです。そこで恩義ある玄宗への恩返しとして、楊貴妃を日本に逃すために謀をしたとの栗波氏の説はまったく荒唐無稽な話ではないでしょう。その時3人が会った可能性はあります。(注①の部分

また、阿倍一族は若狭との関係があります。遡れば、大和朝廷が6世紀に安倍氏を北陸道に派遣したことがきっかけで、安倍氏が北陸に勢力をのばすことになったと言われています。さらに、736年に若狭国名田庄(旧名田庄村、合併後おおい町)に知行地を与えられました。その後名田庄は、陰陽師の安倍晴明ら安倍氏の子孫である土御門家が、京都からこの地に移り陰陽道の流れを受け継いでいることで知られています。現在も「陰陽師ゆかりの里」があり、是非ともこの若狭のパワースポットにお越しください。なお、阿倍氏が安倍氏にいつ変わったかについては所説ありますが、平安初期が有力説となっています。いずれにしても、安倍仲麻呂は若狭とは縁があり、意図的に若狭に楊貴妃を逃したのかもしれません。もう一つの可能性としては、遣唐使同期のかの有名な吉備真備が754年から761年に太宰府の太宰第弐の要職にあり、もし阿倍仲麻呂がそれを知っていたのなら、吉備真備を頼って博多を目指したのが、結果的に若狭に漂着した可能性もあるのではないでしょうか。これも、矢代に漂着したのが757年で、タイミング的には矛盾しません。(注②の部分

矢代(小浜)に入港してからの唐船一行の災難については、栗波氏は深く言及していませんが、以前書いた通りの悲劇が今も語り伝えられています。一行の日本での安堵の為に用意したであろう金銀財宝が、阿倍仲麻呂の壮大な「楊貴妃救出作戦」を最後の最後に「大どんでん返し」に導いたのは皮肉なことでした。(注③の部分

真偽はとにかく、古来の大陸玄関口としての若狭地方に関連した日中往来の歴史ロマンは語り尽くせません。

福井大学 大橋祐之 (2024年2月)