【日中不易流行】『楊貴妃若狭漂着伝説』

能楽における「唐物」、そして福井との関わりについても3回目となります。能「楊貴妃」をきっかけに前回ご紹介しました楊貴妃若狭漂着伝説について、手元の文献を参考にして少し詳しくご紹介したいと思います。

福井県の嶺南若狭地方の小浜市矢代(やしろ)地区。現在15戸、人口40名程度の小さな漁村で、夏は透明度の高さで人気がある矢代海水浴場は京阪神地区からの海水浴客や釣り客で賑わいます。4件の民宿も美味しい若狭湾の魚介類が人気です。

この地区には、前回紹介した悲しい物語の伝説を秘めた「手杵(てきね)祭り」という伝統行事が1200年以上続いていました。しかし、2006年を最後に舞の担い手の子供がいなくなり、祭の舞は休止となりました。現在は神事のみ「矢代祭り」として4月第1日曜日に執り行われています。

祭礼の起源は古く、奈良時代末期に一艘の唐船が矢代浦に漂着。乗船していた王女と女官8名が持っていたおびただしい金銀財宝に眼がくらみ、村人が餅をつく手杵で全員を殺し、財宝を奪ってしまいました。その後村では悪疫流行などの不吉な出来事が絶えず、その贖罪の証、懺悔滅罪のために始められたという伝説に基づきます。船の漂着年度は、757年2月と伝えられています(「観音堂縁起文書」)。

矢代浦に漂着した難破船はどこの国のもので、王女のような女性はいったい誰だったのか。1966年9月、文化庁と福井県教育委員会が「若狭地方仏像総合調査」の実施の際に調査に乗り出したそうです。矢代地区の区長宅に保存されていた古文書類が提出され、漂着したのは中国・唐の船で、乗っていた人物は楊貴妃の一行ではなかったか、という文章が出てきました。その古文書「聖観世音由緒」には、「村老相伝う。彼の船中の婦女は、唐の玄宗帝の妃婿なる由。往時より口伝せり。(中略)此年六月安禄山の乱あり、玄宗、蜀に幸し、楊妃馬嵬に宛し三千の官婿、熱砂を踏んで乱をさけることあり。船中の人は華清の妃婿にして、乱を避け、海に浴しや」(下線は筆者)とあります。楊妃とは楊貴妃のこと、華清の妃婿とは、楊貴妃と玄宗皇帝が愛した華清池の妃ということではないか。また、安禄山の戦いは、755年~757年。楊貴妃が馬嵬で殺されたとされるのが756年7月(所説あり)。矢代浦に漂着した757年2月でタイミング的にはピタリと一致しています。後の伝説では、首を絞められた楊貴妃だったが突然息を吹き返した。蘇生した楊貴妃は宮女に守られて襄陽に送られ、そこから揚子江に出て揚州に下り、日本に渡ったという説があります。また、殺されたのは身代わりの女性ではないかとの説もあり、真偽は確かめようもありませんが、たとえ楊貴妃ではなくても三千人いた玄宗皇帝の後宮の女性の一人であったのではないでしょうか。矢代地区にある福寿寺本堂に安置されている聖観音菩薩は殺された王女の姿を模したものと伝えられています。この聖観音菩薩は、17年に一度御開帳される秘仏となっており、前回は2017年に御開帳されました。小浜市役所の話では、祭礼の担い手の問題もあり、次回の御開帳の時期は未定とのことです。現在は写真でしか見ることができない聖観音菩薩ですが、宝冠の華やかさ・豪華さが能「楊貴妃」に極めて似ており、更なる妄想が広がります。                          

来年3月16日に北陸新幹線が若狭の玄関口となる敦賀まで延伸されます。大陸からの漂着伝説が多く、歴史のロマン溢れる若狭路に是非ともお越しください。 

若狭小浜のデジタル文化財より
「福寿寺 木造観音菩薩坐像」
能「楊貴妃」より
(シテ:観世喜正 撮影:青木信二)

 福井大学 大橋祐之 (2023年12月)

【参照文献等】
小浜市ウェブページ
矢代地区観光協会ウェブページ
・読売新聞福井支局「福井意外史」勝木書店 1975年 
・越前若狭における渡来系伝承の研究 塩瀬博子 2017年
・小浜市役所 文化観光課よりヒアリング