前回ご紹介しました能楽における「唐物」。テーマの一つは美女です。
中国の歴史上の実在した三大美人は西施(春秋時代)、王昭君(前漢)、楊貴妃(唐)ですが(所説あり)、能楽にはそのものズバリに「昭君」と「楊貴妃」という曲があります。その他項羽の愛姫の虞美人も「項羽」に登場します。今回この中でも、楊貴妃(719-756)と能楽、そして日本、さらに福井とのいわくについてご紹介したいと思います。なお、これらは「東北地方にジンギスハンは生きていた」という類の現代の都市伝説ではなく、根拠となる何らかの事実が存在しており、信憑性はさておいて興味深い異説ということでご了解ください。
まず、能「楊貴妃」について以下簡単にご紹介します。
寵愛する楊貴妃を失い、悲しむ玄宗皇帝は、仙術者(ワキ:死者の国と往来できる特殊能力者)に楊貴妃の霊を探させます。仙術者は蓬莱宮という仙郷で楊貴妃(シテ)に会い、皇帝の悲嘆を伝えます。すると楊貴妃は玄宗皇帝との「比翼連理の誓い」を語り、思い出の舞(序の舞)を舞い、面会した証拠に仙術者にかんざしを与えて見送るのでした ―このように能では、玄宗皇帝と楊貴妃の悲しい恋の物語だけに焦点を絞り、楊貴妃の歴史的事実にはあまり触れられていません。
楊貴妃と玄宗皇帝の七夕の秘密の睦言「天にあれば、願わくば比翼の鳥にならん。地にあれば、願わくば連理の枝とならん」は余りに有名であり、意味の説明は省略しますが、「比翼連理・偕老同穴の契り」のフレーズは昭和の結婚式に参列した際、偉い上司の挨拶の中で当時は理解不能な言葉として聞いたことを覚えています。
また、能では「楊貴妃」の曲は、「定家」、「大原御幸」と並んで三婦人と呼ばれており、高貴な女性の気品と優艶さを兼ね備えた鬘物の代表作品とされています。楊貴妃の装束はそれは絢爛豪華で、特に金色の頭飾りが揺れたときの優美さは何ともいえません。能の楽しみの一つは、半睡眠の朦朧とした意識の中で、目を開ければ天下の美女に会えることだと個人的に思っています。ネット上に多くの画像がアップされています。是非ともご覧ください。
その楊貴妃は、中国の史書によれば756年に安録山の乱(安史の乱)によって馬嵬(ばかい)で玄宗皇帝の命により、殺されたと伝えられています。愛する人に殺されるという悲劇的な最後でしたが、実は生きていてその後日本に渡ってきたという伝説が日本各地に残されています。
まず一番目は、山口県長門市。馬嵬で殺されそうになったところをこっそりと近衛隊長が逃したとも、実は亡くなったのは替え玉であったとも言われています。命からがら日本に小舟で流れ着いた楊貴妃は、その後少しして亡くなり、そのまま長門市に葬られたとされ、二尊院には楊貴妃のお墓として五輪塔が建てられています。楊貴妃に縁があるということから安産・子宝・縁結びなどのご利益があるとされており、人気を集めているそうです。しかし、この話の元々は、1986年8月17日の朝日新聞社会面に、「楊貴妃は日本で死んだ?」との記事が出て話題になったということですが、遡ると中国の張方という人が発表したのを上海の新聞「文匯報」が紹介したとしており、そうであれば中国発の異説となります。
次に、熊本県天草諸島。天草下島の天草市新和町小宮地宮地浦に字として、何と「楊貴妃」という地名が現在も残っており、楊貴妃が安録山の乱を逃れて唐の都から天草に流れ着いたという民話が存在します。2006年3月に銅像を竜洞山に建立され、美人のシンボルとして「撫でたら美人になる」といわれており、是非家内を連れて訪れたいと思っています(笑)。
天草楊貴妃漂着伝説については、熊本大学の研究者が、揚子江から天草への潮流の調査など多面的にかなり踏み込んだ分析をおこなっています。分析の結論としては、「事実であった可能性がある。しかし、それは可能性でしかない」と控えめにしているものの、歴史のロマンと妄想は尽きません。
ここまでの楊貴妃漂着伝説は最近では結構知られた異説で、地元の町おこしとしてPRされたりしています。この話には、福井と関連した更なる続きがあります。「楊貴妃が福井若狭に来ていた」というのです。福井県の若狭地方の小浜市のHPに、「手杵(てぎね)祭り」の記事があります。以下紹介文をそのまま引用します。
「手杵祭り(矢代祭り)(H.18より休止中)4月上旬 矢代地区加茂神社の例祭―県無形民俗文化財に指定された奇祭です。奈良時代に、矢代の村に漂着した唐の女王の一行を、財宝に目がくらんだ住民が襲い惨殺したという歴史、悲話を悔み、たたりをおそれた子孫が平安時代からこの祭りを始めました。祖先が行った蛮行を再現することで、その悪行の戒めとするとともに女王らを供養すると言い伝えられています。劇の配役は、主催の大禰宜を始め、区の住民(戸主・長男・娘)が必ず務めなければならないきまりになっています。劇の内容は、顔に墨を塗り、頭にシダの葉をかぶって黒の素襖(すおう)を着た村人役の男性3人が、杵や杵に荒縄をかけた弓を持ち、唐船にみたてた木製の丸太船をかかげた裃姿の青年6人(舟かき役)、女王・侍女役の少女3人が太鼓の音とともに唄いながら礼殿をまわり、村人達が女王一行を襲い惨殺するシーンが演技されます。」
いかがでしょうか?なかなかシュールでコメントが難しい祭です。林信夫氏の論文では「漂着船に関わる悲しい祭『手杵祭』」(漂着物学会誌第1巻2003)と表現されていますが、複数の論文の民俗学的な研究対象となっています。小浜市HPには、「唐の女王の一行」と記載されており、その他の文献にも楊貴妃の名はありません。しかし、古い本ですが「福井意外史」(読売新聞福井支局編昭和50年)の中に、「若狭に来た楊貴妃」で楊貴妃伝説の記載を発見しました。極めて興味深い内容ですが、字数の関係上詳細は別の機会に記載したいと思います。ただ、最近掘り起こされた悲劇「福田村事件」のように、過去に村が背負った悲劇は闇に葬られがちですが、ここでは過去の過ちをあいまいにせず、祭りという形で子孫たちに伝える辛い選択をした若狭の人の心根をおもんばかりたいと思います。
福井大学 大橋祐之 (2023年10月)
【参照文献等】
・「宝生」第41号公益社団法人宝生会 2016年
・中村八郎「能・中国物の舞台と歴史」能楽書林 1988年
・「楊貴妃」宝生流謡本 わんや書店 1981年
・佐成謙太郎「謡曲大観」第五巻 明治書院 1954年
・長門市ウェブページ
・ 天草宝島観光協会ウェブページ
・ 天草楊貴妃漂着伝説ウェブページ
・小浜市ウェブページ
・読売新聞福井支局「福井意外史」勝木書店 1975年
以 上