「野尻眼鏡」中国盛衰記も6回目となりました。これからは衰退期の話となります。
野尻眼鏡グループの24年間に亘る中国での栄枯盛衰の物語の中で、2004年上海大学嘉定分校内からの業容拡大を狙った戦略的な1回目の工場移転。その後、上海嘉定区工業区からの突然の立退き要請による想定外の2008年2度目の工場移転。前回に引き続き、2度の工場移転から2012年の清算業務を担ったS総経理からのヒアリングを参考にして以下記したい。
2004年6月の野尻グループの飛躍の夢を乗せた上海野尻光学有限公司開業式から2年余り。納期遅れで混乱した現場立て直しの為に2004年から2回目の赴任となったS総経理は、日々内憂外患で悪戦苦闘していた。そんな中、2006年10月某日。その文書は突然FAXにて送りつけられた。2006年10月某日。その文書は突然FAXにて送りつけられた。嘉定区政府よりの1枚の文書には「今年12月末までに移転するよう」と現実離れしたことが書かれており、最初は信じられなく本社にも報告しなかった。その後、同じFAXを受信したハウス食品現地法人総経理より、JETROに相談が持ち込まれ、マスコミで報道された。日本で取引先からそれを聞いた本社社長が逆に上海に問いあわせた程に余りに唐突で信じられない話であった。
根拠は「上海市嘉定新城(街)建設管理委員会弁公室」第10号文書で、都市計画実現のため第1期立退き企業として24社記載されており、その中の日系10社の中に上海野尻光学の名前があった。判明した日系企業6社の親会社は、ハウス食品、呉羽化学、神戸製鋼、酒井重工業などの上場企業4社と非上場企業は野尻眼鏡と大阪の瑞光という会社であったと報道された。しかし、瑞光という会社は、紙おむつ・生理用ナプキン等の衛生用品製造機械の世界トップクラスのメーカーで、実際は1989年に上場している。人材面でも財務面でも弱小な中小企業は実質野尻眼鏡だけであり、想定外の難題に対して現場の処理能力と本社のサポート能力を超えてしまったのが悲劇。まだ1回目の移転で生じたメッキの品質問題や関税の追徴問題を引きずっている中での立退き問題であった。
この問題は、当時産経新聞や日経新聞にも「チャイナリスク」として大きく取り上げられ、上海総領事館などを巻き込んでの問題となった。ネット上には、今での多くの記事がアーカイブされているが、日中投資促進機構の元事務局長であった菅野真一郎氏が「駐在員のための『中国ビジネス-光と影-』(2016.10.3)で詳細を記載されている。是非ご一読ください。
当時の急速な中国の経済発展を背景にした工場立退き事案のはしりでもあり、また日系企業10社を含む24社が操業後2年程度で立退き要請を受けるという客観的に見て「あまりに酷い」事案であったので、上海日本総領事館やJETROが日本企業関係者による情報交換会を開催して、上海市政府や嘉定区政府との面談要請の支援をしてくれた。しかし、それは既に「交渉」ではなかった。上海市政府が既に認めた法的根拠がある上海新城計画による工場立退きを前提とした「ガス抜き的な対応」であり、最終的には「立退き止むなし」との諦めの予定調和であった。事実、弱小野尻眼鏡にとっては、「衆寡敵せず」特段あがなう術はなく、既に論点はいかに多くの移転補償金を得るかの条件交渉であった。
本件は、住宅地・商業地への用途変更が計画されている「瑕疵のある開発区」を事前に何の説明もなく売った至誠に悖る事案とも言えるが、「地頭と泣く子には勝てぬ」と結局は泣き寝入りとなった。「中国にはごね得は無い」と当時から言われていたのを記憶している。当時私は転職した繊維会社の嘉定区馬陸にあった上海現法の総経理という立場であったが、その工場に対しても立退き要請が来ており、その後中国各地で同じような事案が発生したことを仄聞した。結果として、2回目の移転では移転実費は支払われたものの、期待した迷惑料的な補償費は得られなかった。ただ、限られたマンパワーの疲弊と何より貴重な時間を無駄にして、2008年4月に新々工場が再稼働した。旧工場と同じ条件という事で移転後もメッキライセンスは認められたが、そこにはもうメッキ設備はなかった。上海でのチタン製眼鏡一貫生産の肝であったメッキ工程から撤退の経営判断がなされたのだった。
そして、新々工場稼働後間もない2008年9月。あのリーマンショックが発生するのである。売り上げが蒸発してしまった最悪のタイミング。リーマンショックにより、日本本社からの受注が半減。資金繰りが一気に悪くなる。キープされていた移転補償金も運転資金に流用。日本本社も巻き込んでの負のスパイラルに陥っていく。そこからの売上は右肩下がりに減少していき、結果2012年2月10日日本本社が自己破産。中国の現地法人も清算された。これもS総経理がしんがりを務めた命がけの業務だった。
眼鏡業界の中国進出のパイオニアであり、中国に眼鏡製造技術を根付かせた「野尻大学」は、四半世紀に亘る中国での歴史を閉じたのだった。当時私は既に福井大学で働いていた。業況は厳しいとは聞いていたがまさかの破綻に驚いた。最後はメインバンクが引導を渡したということである。
まだまだ中国内ではやりようがあったと今でも思うが、上海市嘉定の生産環境や市場の変化が大きかった。特に人件費の増加。従業員が自動車通勤をするようになり、新工場に従業員用駐車場を確保する必要があった時に、果たしてここが眼鏡を製造するに適した場所かを冷静に検討する必要があったのではないか。残念ながら突然の強制移転のパニックでその戦略的視点の検証が抜けてしまった。「ピンチは飛躍のチャンスだったのかもしれない」とはS総経理の後悔の弁。しかし、これは現場ではなく、日本本社が中長期の視点で戦略的に考えるべきことだったのだと思う。やはり、最後は人である。中小企業には根本的にグローバル人材が決定的に不足していた。現在大学教員として、人材を社会に送る側にいる。改めて人材育成の重要さと責任の大きさを野尻眼鏡の栄枯盛衰が残した一つの教訓として噛み締めている。
ここからは余談で、話は全く変わります。
以前紹介した鯖江の中国への眼鏡技術交流のお礼として1985年に鯖江市西山動物園に北京動物園から送られた「小熊猫」(レッサーパンダ)。あれから37年経ち、7世代50匹近くを誕生させた国内有数の繁殖施設となっています。日本で一番小さな動物園と言われる西山動物園。現在も14匹を飼育しており、レッサーパンダに特化したイメージが全国に定着して、2019年度では2010年度比倍増の20万人弱が来園している。眼鏡が縁で北京から鯖江に来た珍獣が、眼鏡のまち鯖江の新たな大きな魅力として成長している。最初は何かパンダ違いで誤解があったのですが、「眼鏡と言えば鯖江。鯖江と言えばレッサーパンダ」と知名度が上がり、コロナ禍で落ち込んだ入園者数もコロナ前近くまで回復してきている。人の心を癒すレッサーパンダの愛くるしさは、時代は変わっても「不易」です。眼鏡にまつわる野尻眼鏡の日中の恩讐を越えて、お口直しにチョットいい話をご紹介しました。
次回は、今も脈々と中国で引き継がれている野尻眼鏡の遺産(残滓と言うべきか?)について紹介したいと思います。
鯖江市HP:https://www.city.sabae.fukui.jp/nishiyama_zoo/
福井大学 大橋祐之 (2022年12月)