【日中不易流行】「魯迅『藤野先生』と福井③」

引き続き魯迅と藤野先生のお話。昨年末購入した「魯迅の仙台留学―『藤野先生』と『医学筆記』―」(2024)と「藤野先生と魯迅―惜別百年―」(2007)を読みました。福井では、藤野先生を切り口に魯迅との縁を盛り上げていますが、元々は魯迅が藤野先生に出会った留学先の仙台や東北大学(旧仙台医学専門学校)での縁が始まりです。そんな関係で、1998年秋に来日した当時の江沢民国家主席は仙台を訪問し、東北大学医学部に残る古い階段教室に立って、魯迅と藤野先生を偲びました。

2006年は魯迅が仙台を去った1906年から100年目。2024年は魯迅と藤野先生が出会った1904年から120年目。これらの周年事業では上記2冊が取り纏められ、魯迅研究に大きな足跡を残しています。東北大学では、魯迅研究を継続しており、その成果の一つとしてHPで「魯迅と東北大学」(https://www.archives.tohoku.ac.jp/luxun/story/)をまとめています。

上記2冊の特色として、どちらにも藤野先生が添削した周樹人(魯迅の本名)の「脈管学」の 講義ノート(原資料は北京の魯迅博物館所蔵で一級文物(国宝))のカラー写真とその訳文が掲載されています。これについては、今回初めてまじまじと見て、驚きました。数多く描かれている内臓や器官のスケッチの緻密さは、魯迅の画力を示しており、ダ・ヴィンチの人体解剖図の心臓を思い出させました。文章の記述の専門的なことは分かりませんが、びっしりと几帳面さを感じます。何よりも藤野先生が添削した赤ペンの記述は若干の加筆修正程度のものではなく、相当な時間を費やして書き入れたものだということがよくわかります。いままで、軽々しく「赤ペン添削」と書いていたのが正直申し訳なく思います。

また、私が好きな1960年代に放送されたNHK人形劇「ひょっこりひょうたん島」の脚本でも知られる劇作家、井上ひさしはこのノートを見て、「講義ノートの美しさを本当に支えているのは、頁のいたるところに赤インクで太く書き込まれた金釘文字の行列である。これこそ、魯迅をあっと言わせたあの藤野厳九郎の筆跡なのである」と驚嘆しています(「魯迅の講義ノート」1994年)。なお、井上ひさしは、魯迅の晩年を描いた戯曲「シャンハイムーン」で、1991年谷崎潤一郎賞を受賞している縁があります。

一方で、解剖学の専門家からは、「藤野教授の添削は、解剖学上必要・有用な書き込みよりも、日本語の広い意味での修辞に関する書き込みが多い」というのが統一的な見解であることは大変興味深いことです。藤野先生は、将来このノートが中国の解剖学に教科書として出版されることを想定し、記述の部分にも一切妥協は許さなかったのでしょう。

この解剖学ノート6冊の原本のうち、「脈管学」ノートの複写本が、2006年2月に北京魯迅博物館から福井県に寄贈され、希望の中高校に貸出されています。直接授受、撮影禁止、教員立ち合いを求められ大事に扱われています。学生には是非このお宝を見て欲しいものです(https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/kokusai/myakkanngaku-note.html)。

さらにもう一つ驚いたことがあります。これほどまで骨をおって支援した魯迅の解剖学の成績が不合格であったことです。なんと、通期で「59.3点」です。1学期と2学期がそれぞれ60点、3学期が58点という藤野先生が採点した成績表(1905年)が残っています。60点を合格最低点として、かなり微妙な点数です。私も現在成績評価者ですが、定性評価であれば、これは「色々悩んだ点数」ですし、また「色々な思いが込められた点数」とも思います。医学系ですから、色んな評価項目を積み上げたものか、期末試験一発勝負であったのか、藤野先生の評価基準は今では分かりません。人文系の採点であれば、58点の点数の意味することは、「少し合格のレベルには達しなかったが、もう少し努力すれば十分合格できるから頑張れ」という具合でしょうか。藤野先生は明治人として、妥協することなき潔癖さがあり、厳格の人でした。この微妙な点数には、軟な昭和人よりも格別な思いが込められていたと想像します。魯迅は中国を代表したエリート留学生であり、将来の中国医学界を担う人材として期待されていたはずです。藤野先生はノートを添削することにより寄り添い、誰よりも魯迅の才能と実力を深く理解していたはずです。エイヤッと下駄を履かして妥協的に合格させるよりも、もう一度やり直して優秀な成績をとってくれることを望んだのではないでしょうか。これは、藤野先生なりの思いやりだったのでしょう。

しかし、魯迅はどう受け取ったのでしょう。かなりショックだったと想像します。あんなに親切に添削指導までしてくれた藤野先生の成績が不合格。信じられない。それも微妙な点数。58点なら、あと2点…。これで留年決定か。全体の平均点は65.8点、142人中68番の成績が残っています。魯迅が医学の道を放棄して、仙台を離れるのはこの成績を受け取ってから半年後でした。医学の道を放棄した理由は、「幻灯事件」をはじめ色々な説が言われており、より多くの中国人民を救うのは医学より文学と考えたためです。しかし、この微妙な点数こそが、医学者としての自分の才能への疑問という点で、魯迅の背中を押した一つではないかと感じています。繊細な魯迅にとって、原因は意外とそんなことかもしれません。

最初の疑問。後々の藤野先生のそっけなさは何故か?に戻ります。藤野先生としては、解剖学のノート添削をしながらも、採点とその後の退学についてのモヤモヤを引きずっていたのかもしれません。教員として、思い入れのある学生の指導方針と採点には悩み、意外と引きずるものです。それがいわんや、後々運命を分ける点数であったと思うと一層です。

一方、魯迅にとっても、この微妙な58点は運命の分かれ道だったのかもしれません。「5」は「我(wǒ)」、「8」は「発(fā)」に発音が似ていて、「58」は中国語では縁起がいい数字と聞いています。魯迅にとっても、大文豪として歴史に残る運命への58点ではなかったでしょうか。想像は尽きません。次回は、魯迅と藤野先生に関する後日談を紹介したいと思います。

福井大学 大橋祐之 (2025年2月)