【日中不易流行】「魯迅『藤野先生』と福井①」

第1回「福井と中国」では、福井と中国浙江省との歴史的な関わりについて道元禅師と藤野厳九郎先生(以下藤野先生)のことを簡単に紹介しました。曹洞宗大本山永平寺の開祖道元禅師は、浙江省寧波にある天童寺の如浄禅師の下で4年間修行しました。また、浙江省紹興出身である魯迅の短編小説「藤野先生」のモデル、仙台医学専門学校(現東北大学医学部)の藤野先生の出身は福井県芦原町(現あわら市)。「藤野先生」は、日本では一部の高校教科書に掲載されているもののほとんど知られていません。しかし、中国の中学校(八年級「語文」)の教科書には今でも掲載されており、藤野先生の名前は日本よりむしろ中国でよく知られています。福井大学の何人かの中国人留学生も教科書で読んだことがあると、その名前を知っていて大変嬉しく思いました。
さて、魯迅と藤野先生の関係は、国籍や立場を超えた「相思互敬の師弟愛」と当時の日中関係との関連が従来注目されてきましたが、今回は改めて魯迅「藤野先生」と福井について私なりに深堀してみたいと思います。ところで、本年3月に敦賀まで延伸された北陸新幹線に乗って芦原温泉駅で下車していただきますと、芦原温泉内に藤野厳九郎記念館があります。近くなった福井にも是非一度お越しください。                                                          この夏、藤野厳九郎(1874-1945)生誕150周年を記念して福井県教育総合研究所教育博物館にて「藤野厳九郎と魯迅」展が開催されました。藤野先生は、現在のあわら市の医者の家に生まれ、愛知県立医学校(現名古屋大学医学部)を卒業して、仙台医学専門学校で解剖学教授だった時代に、清からの留学生として来日していた周樹人(後の魯迅)を懇切丁寧に指導しました。後に魯迅はこの頃のエピソードを小説「藤野先生」として書き、生涯の師として仰いだことは周知の通りです。
私にはこの作品を読んで疑問がありました。確かに、藤野先生は魯迅に対して、ノートを丁寧に赤ペン添削したり、「惜別」と書いた自分の写真を贈呈するなど、特別扱いとも言える親切な行動をとっています。しかし、1926年(大正15)に魯迅が個人名を冠した小説を著し、さらには、1934年(昭和9)に岩波文庫「魯迅選集」に収める作品の中に「藤野先生ダケハ入レタイ」と記した書簡を送ったなどの拘りようはどこから来ているのか?魯迅の心を突き動かしたのは何であったのか?日中関係の悪化という時代背景もあるとは言え、単なる親切に対する恩返しとしては少し過剰な感じが、留学生と接する大学教員としては気になっていました。
魯迅が1936年(昭和11)10月に55歳で逝去した翌年、「文学案内」という雑誌の3月号に藤野先生のインタビュー記事があります。今回の「藤野厳九郎と魯迅」展でその存在を知りました。その中で藤野先生は、「謹んで周樹人様を憶う」と題して魯迅のことを次のように話しています。
「私の写真を死ぬまで部屋に掲げておいたそうですが、まことに嬉しいかぎりです。以上のような次第でその写真を何時どんな姿で差し上げたのか憶えて居りません。卒業生なら一緒に記念撮影もするのですが周さんとは一度も写したことがありません。どうして手に入れられたでせうか。妻がお渡ししておいたのか知れません。私はそう言われるとその頃の自分の姿を見たいと思ひます。私のことを唯一の恩師と仰いでゐてくれたようですが、私としましては、最初に言いましたように、ただノートを少しみてあげた位のものと思いますが、私にも不思議です」
どうでしょうか?なにか、気が抜けるほど淡々としており、あくまで謙虚で実直な人柄がにじみ出るコメントです。北京で疲弊した魯迅を「良心発現」、「増加勇気」した思い入れのある「惜別」と書いた写真のエピソードについても、魯迅が聞いたら少し悲しくなるぐらいアッサリです。何か秘密があって、あるいは照れ隠しもあって、とぼけているのかと思えるほどです。
また、「とにかく支那の先賢を尊敬すると当時に、彼の国の人を大切にしなければならないと云ふ気持がありましたので、これが周さんに特に親切だとか有難いという風に考へられたのでせう。このために周さんの小説や、お友達の方に私を恩師として語ってゐてくれたんでしたらそれを読んでおけばよかったですね。そして死ぬまで私の消息を知りたがっていたんでしたら音信をすればどんなに本人も喜んでくれたでせうに」と書いています。
藤野先生は、福井藩校で漢籍を学んでおり、中国の賢人の教えに対して尊敬の念を抱いていたと思われます。個人云々と言うより、グローバルな視座での中国に対する深い尊敬の念があったことが魯迅に対する親切な行動に繋がったように読み取れます。むしろ、その恩着せがましくない力が抜けた自然体の実直さが魯迅の心を打ったのでしょうか?  
「藤野先生」本文には、「彼(藤野先生)が私に熱心な期待をかけ、辛抱強く教えてくれたこと、それは小にしては中国のためである。中国に新しい医学の生まれることを期待したのである。大にしては学問のためである。新しい医学の中国に伝わることを期待したのだ」と書かれています。リアル藤野先生本人の謙虚な思いとは別に、小説「藤野先生」の中の主人公藤野先生を評す「中国のため」や「学問のため」という言葉以上に、リアル魯迅にとって、実際の藤野先生は忘れがたい敬愛する日本人だったのではないでしょうか。先に述べた私の疑問、魯迅の藤野先生への強い思いとその後の藤野先生のそっけなさ、この温度差は何故か?二人の間には何かがあったのか?次回に私の想像は続きます。

福井大学 大橋祐之 (2024年10月)

【参考】
・魯迅の師、藤野先生の故郷・福井を訪ねて(アニメ 福井県作成)
https://youtu.be/ent5eZXe4T8
・『藤野先生』で有名な魯迅の師 藤野厳九郎の故郷を訪ねて (福井市観光公式サイト)   
https://fuku-iro.jp/blog/detail_185.html
・魯迅『藤野先生』を5倍楽しく読む本 松井利夫

藤野厳九郎記念館前の藤野厳九郎と魯迅の像

「文学案内」昭和12年3月号 藤野厳九郎「謹んで周樹人様を憶う」

 (藤野厳九郎生誕150年記念「藤野厳九郎と魯迅」展より)