【多余的話】『虎に翼』

一般論として、前任者が個性的で評価が高かった場合、後任者はやりづらいものである。たとえ後者が格別に劣っておらず、普通の出来であっても前者との比較の眼は厳しくなりがちである。まして、後者が芳しくないと無残なことになる。
NHK連続ドラマ『虎に翼』は出色の構成、脚本、演出であった。前半部は社会進出に挑む女性も、家庭に残って支える女性も、丁寧にバランスを取って描かれていた。後半部は主人公たちが法曹分野で昇進し、戦後の社会変化や改革に関与していく過程が盛り沢山となり駆け足になった。次世代の成長や飛んだり跳ねたりの展開に振り回され、再放送を観ながら何とか追いついた。
ただ、『虎に翼』というタイトルをどのような根拠で選んだのか、意図が分からずモヤモヤしている。湯浅邦弘氏も「このタイトルはどのような由来なのか、番組の公式見解を知らないが」としながら、婉曲な疑問提示に留めている。(『東亜』10月号・China Scope)『虎に翼』の出典を探ると、『韓非子』の「難勢第四十」にあった。
(以下は新釈漢文大系12『韓非子』/明治書院/武内照夫訳を参照)。
・・・故に周書に曰く、毋為虎傳翼、将に邑に飛び入り、人を擇りて之を食らはむとす・・・。「毋為虎傳翼」は、虎に翼を傳(つくる)こと(なかれ)と読み「虎に翼をつけてはならない、山野から邑(人里)に飛び入り、人をつかまえこれを食べようとする」と訳されている。
・・・夫れ不肖の人を勢に乗するは、是れ虎が為に翼を傳るなり。
・・・もし不賢の人を君主たるの勢位に乗せるなら、これは虎に翼をつけることである、と続いている。
更に止めの一節として・・・桀や紂が気ままな悪行を成すことができたのは、君主たるの威勢が、虎に翼の役目を果たしているからである、と『虎に翼』をつけることを明確に否定している。
虎については「苛政猛於虎」(礼記)という言葉がよく使われる。「苛政とは、きびしくうるさい政治。租税・力役・法律・刑罰がきびしく、人民生活にわずらわしく干渉する政治」(角川・新字源)とされている。虎よりも猛々しい苛政を厭って、虎の出没する土地であってもそこを離れない人の話は教科書で読んだことがある。
仮に連続ドラマで法律を学ぶ女性たち(主人公は寅子)が「虎」ならば、資格を獲得するのは「翼」をつけることになり、法律権威として市民生活に厳しく関わるという誤解に繋がらないだろうか。
不肖不賢の人物に「翼」を与えて勢いに乗せた例は桀王や紂王らの古代の権力者から始まり、現在に至るまで数多の実例を見てきた。今回の『虎に翼』の制作意図は別にあると思うものの、この題名に戸惑う老生に公式見解をご教示ねがえれば幸いである。
韓非子の表面をなぞる過程で、『中国の思想』(1964年・徳間書店・全12巻/松枝茂雄・竹内好/監修)を手にした。「刊行にあたって」の一文に惹き込まれた。執筆は竹内好によるものだろうと想像した。氏が中国への出征前に書き上げた『魯迅』の文体からの連想である。
茨木図書館はありがたいことに月報を丁寧に保存してくれていた。おかげで、第1巻「韓非子」にひとそえされた駒田信二先生の文章にも再会できた。駒田先生が湖南省での従軍体験(捕虜・スパイ容疑で死刑判決)を小説にした『脱出』(鎌倉文庫)を熱心に読み、入社早々の勤めをサボって駒田家を訪問して謦咳にふれ、何度かお便りをいただいたことを思い出した。
駒田先生の『阿Q正伝・藤野先生』『一条さゆりの性』『水滸伝』という翻訳や著作例の拡がりには特異な体験に裏打ちされた胆力の強さと深い人間洞察力を感じる。
そもそも、『中国の思想』が第1巻に韓非子を選んでいることにも松枝・竹内らの「中国文学研究会」の流れを汲む独自性を感じる。
・・・人間を義よりも力に従い、愛よりも利につくものとしてとらえた。そのとらえ方のきびしさ、義を説き愛を説くものが実はそのかげにかくし持っている醜さを鋭く突いた、その真実性にあるといえよう。そしてそのとらえ方は、ヨーロッパの近代経済発展の過程で、人間が「ホモ・エコノミクス」としてとらえられた近代的合理性に似ているともいえるのである・・・と捉えた駒田先生はさらに韓非子が君主に説いた七つの術を列記して「おそらく近代の経営者たちにもよろこばれるであろうことが、かれの人間のとらえかたのきびしさと新しさを示している」と月報に綴られている。
戦後混乱と復興を経て、高度成長のジャンプ台となった東京五輪の年に、やや硬めの読み物として『中国の思想』を戦後の経営者へ届けたのは、稀代の出版プロデューサー徳間康快氏の慧眼であった。徳間氏もまた、『アサヒ芸能』発行、アニメの宮崎駿の発見、中国への日本映画の配給など実に懐の深い活動をしている。
『中国の思想』第1巻の『韓非子』は五十五編からの選別、抜粋、抄訳だけで、「韓非の人と思想の要点をつかむことができよう」と忙しい読者を励まし慰めている。「虎に翼」は選ばれていない。

(井上邦久 2024年11月)

セミナーのご案内
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■参加費   :一般2000円/学生500円
■申込方法  :sec@kajinken.jp
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