【多余的話】『猫の正月』

太陽暦の年越しのすぐあとに、太陰暦の年越し(1月22日の春節)が追いかけてきました。中国に駐在した頃には、忘年会・新年会(紅包)・忘年会・新年会(紅包)が続いて財布は軽く、胃が重い時期だったことを思い出します。(紅包:お年玉、心付けを赤い袋に包む)

日本では、年々薄れていく正月気分を幾分かでも取り戻そうと、元旦に漱石の『吾輩は猫である』を手にしました。小さな本棚の上段右端に不動の猫が(上)(下)二冊眠っていました。30年前のポプラ社文庫、消費税が3%の頃の購入でした。記憶は薄れていますが、たぶん漢字検定試験に取り組んでいた頃に、行住坐臥、行屎送尿などの四文字熟語、衒(てら)う、入水(じゅすい)の読み方などの稽古をして、明治人の文章に慣れようとしていた時期に購入したのだと思います。

この小説は俳句雑誌「ホトトギス」主宰の高浜虚子に慫慂されて1905年1月号に掲載されています。それもあってか、冒頭から年始の挨拶や賀状についての小話が続きます。「書を読むやおどるや猫の春一日」という俳句を添えた賀状も届いています。また、征露とか祝捷会という言葉が出てきて、日露戦争の二年目の正月であることが分かります。そして、元日に旅順陥落の報せが入ったことも知らされます。

東京の猫の家では、普段の日常が続いているようで、戦争による緊張感や切迫感が少なく、新聞『日本』(社員の正岡子規が戦地へ派遣され結核病状が悪化)を購読しているらしい知識人の家は穏やかです。それでも、静岡出身の門弟へ在所の母から届いた便りに、村の青年の誰それが戦死した、負傷したと書かれていることが坦々と綴られています。読後、近くの集落の郡神社や春日神社で日露戦役記念石碑を眺め、百有余年前に刻まれた村出身者の姓名と兵籍から銃後の哀しみを想像しました。

1971年2月から3月に中国をラウンドする機会を得ました。3月13日、北京人民大会堂での周恩来首相との懇談会で、日本の戦争映画について首相は「日本とロシアの戦争だが、戦場はどこか?日本でもなくロシアでもなく、中国であることを見逃してはならない。許してはならない。」と厳しい口調で語ったことを思い出します。

阪神淡路震災記念日の前後に神戸三宮近くのトアロードのギャラリーで金井良輔さんの個展が今年も開かれ、今年も訪ねました。

新作の試し買いや旧作の掘り出し品を正価で購入したこともありましたが、最近はもっぱら折々のテーマの対話でお互いの調子を測ることが多くなりました。高校時代の回顧談はしないし、石峰寺の墓石デザイン料の話もなく、目の前の関心事だけを話しています。

今年のテーマは新作絡みの「箱の話」に続き「合計特殊出生率」でした。結婚願望や育児願望という感情から距離をおいて久しい同級生同士なので、実感としてではなく想像としての若い世代の発想について語りました。統計学的なきまりもあるとは思いますが、15歳から49歳までの女性が生涯に産む子供の数と理解しています。

合計特殊出生率の変化(日本と中国)   出所:世界銀行のデータを基にジェトロ作成

中国の場合、持ちたい子供の数が1.8人という調査もあるようですが、願望と実態(2021発表;1.3)の乖離が大きい理由が、教育費などの子育て費用負担だけなのか?親が子育て以外に自分の楽しみを優先したいのか?それほど単純なことではないでしょう。少子化、労働力の減少をロボットや外国人労働者に頼って解決するプランにも限界があるのでは?出産・育児支援資金を手厚くする効果に期待して、結婚や出産への「夢」が増殖できれば幸いですが、事はそれほど単純に強制や誘導できることではない「心」の問題でしょう。選挙や抗議デモで意思表示することよりも、出生率低下という誰にも取り締まることのできない現象が時間とともに大きな社会変化をもたらすのではないだろうか?ということで話を終えました。

承久の乱で敗れた後鳥羽上皇(大河ドラマでは都を離れる直前に頭髪を落とした法皇姿が一瞬見えました)が配流されたのが隠岐。シベリアのラーゲリからの「ダモイ」が叶わなかった山本幡男さんの出身地の隠岐島には記念館があるとの事。大相撲初場所で引退した元関脇の隠岐の海。年末年始に隠岐の三人が繋がりました。

正月早々、「実務には役に立たない冬の猫」の多余的話(言わずもがなの話)の呟きで失礼しました。

(井上邦久 2023年1月)