【多余的話】『恋と女の日本文学』

4月末から5月にかけて、長雨が続いたが、耕す程の土地もなく、筆耕するほどの技能もない。晴れたら歩き、降れば読み書きをする毎日。算盤勘定や晴耕雨読とは無縁の「たられば」生活。

本棚から丸谷才一『恋と女の日本文学』の埃を払って取り出した。

消費税が3%だった1996年初版の本には地元の古本屋「オランダ屋書店」のラベルが貼られていた。茨木市に移住後の証だが、購入した時の記憶はない。ただ読んで印象に残った箇所が少しある。

和田誠の装丁に巻かれた帯の惹句に「日本文学はどうしてこんなに恋が好きなのか、女性中心なのか。『万葉集』から『細雪』までの新しい展望!」とある。雑誌『群像』に発表された「恋と日本文学と本居宣長」と「女の救はれ」の二編に「あとがき」が添えられた単行本の帯の反対側には「わが文学史を新しく解明する三部作、この本で完結!」と賑々しい。作者本人は英文学の専門家であり、文中では国文学者ではないという控えめの姿勢と、その裏腹に思いがけない断定があり、謙遜しながらも新説を開示している。

日本文学を語るのに冒頭から中国文化や文学との比較が出てくる。

まず上海で、井上ひさしが中国某随筆家相手に不謹慎でない程度の色っぽい突っ込みを繰り返し、相手が困るのを傍から見て面白がった体験から始まっている。この場合、当然ながら普通の通訳者であれば困り抜いて話題をはぐらかすか、通訳を拒否するかも知れない。しかしここで日本と中国を繋いだ通訳者は、司馬遼太郎の表現では「呼吸をするように日本語を話す」朱實(瞿麦)先生である可能性がかなり高いと邪推している。朱實さんは昨年にこの世を留守にされたので、ご本人にそれを確かめることができないのが悔やまれる。

次にバターフィールドの『中国人』の第6章「愛情と性」が採り上げられ、福建省の副省長主催の外国記者団を招いた宴でユーゴスラビア記者が井上ひさしと似た発言をしたところ、通訳官は非常に英語に堪能な中年男であったが、発言にぐっとつまったまま、「もしもどうでもよいことでしたら、これは通訳しないほうがよいと思いますが」と英語で言った、という引用が続く。丸谷氏はご自身の体験として、中国語での発音がよく似た「妻管厳(恐妻家)」と「気管炎(気管支炎)」が流行った事例を、合法的にふざける為の苦心の結果としている。(丸谷氏は「妻官厳)」と書かれているが)

続いて、張競の『恋の中国文明史』を高く評価して、中国文学の分類を(A)夫婦間の愛情(B)未婚の男女の恋(C)遊里の恋、に分け(A)(C)は肯定されるけど、(B)はきびしくしりぞけられる、と張競説を引用。『唐詩選』『三体詩』に例をとり(B)は一首もないと断言した上で、男女の関係に厳しい儒教の影響が大きく、儒教を否定したはずの新中国でも依然として建前は根強いとしている。

丸谷才一が補助線に利用した『中国人』(Fox Butterfield: China,Alive in bitter sea)や張競の著作は、共に1990年代初頭の中国出張時の長距離・長時間夜行列車の無聊を慰めてくれたので印象が深い。

それから30年、時や時節は変わっても、「恋と女の日本文学」の傾向は続いていると思う。日本文学の代表的作中人物は光源氏であり続けている。丸谷才一は中国文学の代表的作中人物は孔子になるとしている。確かに論語は大ベストセラーであるが、孔子を作中人物とするのも畏れ多くて、シンドイ気がする。とは言え、魯迅の「阿Q」を代表的作中人物とするのは更にシンドイ。その流れで試みに乱暴な喩えをすると、「情と男の中国文学」になるだろうか?

「情」は友情であり、人情である。また「酒」も候補に上がるが、「恋」との対応にはならず、友情の媒介であろうか?例えば、李白。

日本の教科書にも使われる
「山中にて幽人(隠者)と対酌す」:
              両人対酌山花開 一杯一杯復一杯 
              我酔欲眠卿且去 明朝有意抱琴来

「我酔うて眠らんと欲す。卿(きみ)去るべし」(陶淵明伝)を引用している。二百年の時空を超えて李白は陶淵明と対酌した。酒と男の友情である。
一海知義『陶淵明―虚構の詩人』(岩波新書)参照。

1008年4月13日、一条天皇の中宮彰子は懐妊の故をもつて父の邸である土御門殿に退出。紫式部もまたこの邸にあった。

詞書、土御門殿にて、三十講の五巻、五月五日にあたれりしに
        妙なりやけふは五月のいつかとていつつの巻のあへる御のりも

五月一日から法華経三十講の法会が始まり、五月五日に最も尊ばれる提婆達多品を含む第五巻が講じられた、そこで道長に命じられて詠んだ晴れの歌。紫式部集に65番として載せられている

紫式部集 和歌一覧 126首 – 古典の改め (jimdofree.com)

以上、千年余り前の5月5日の記録。最後に孫引きをもう一つ。
系図書『尊卑文脈』の紫式部の項には、以下の記述があり、

       歌人  上東門院女房 女子 母右馬頭為信女 紫式部是也
       右衛門佐藤原宣孝室 御堂関白道長妾云々

考証では1009年、道長45歳、紫式部37歳の時の事と云う。(完)

(井上邦久 2024年5月)

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