この夏、旧ソ連の最高指導者だったゴルバチョフが亡くなった。棺に蓋をしてもその評価は定まらない。欧米日とロシア国内では見解が異なっているようだ。
新思考政策で共産党独裁の旧体制をシャッフルしたものの、再建(ペレストロイカ)ができずに混乱したソ連の轍は踏みたくない、とする中国の指導者の中には「中国のゴルバチョフだけにはなりたくない」思いが強いと伝えられる。
ゴルバチョフが清新なイメージと政策で人気のあった頃のモスクワへ出張したことがある。従弟から留学中の友人への土産を託され、モスクワ大学を訪ねた。広大なキャンパスを右往左往しながら留学生寄宿舎を尋ね回る途中で、人だかりと歓声が聞こえる方へ向かったところ、何と野球をやっているではないか!
東海大学の松前重義総長がモスクワ大学との交流20周年を記念して贈呈した野球場の杮(こけら)落しの試合だった。急造のモスクワ大学チームと東海大学、そして天津体育学院チームも招かれていた。手に汗を握る熱戦とはいかず、場内マイクで野球のルールをロシア語で説明しながらゲームを進める牧歌的な世界だった。出張直前からの「おから学習」ではロシア語を聞き取れるはずもなかったが、「ダモイ!ダモイ!」という叫ぶ喚声だけは、「ホームイン・生還」という意味だと知れた。なぜか子供のころから耳にしたような気がする「ダモイ」という単語をモスクワ大学で聞いた印象は長く残った。
「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」
正岡子規による明治32年の一首。この歌と「野球伝来150年」のロゴを芝生色の帯で巻いた『正岡子規ベースボール文集』が岩波文庫として発売されている(420円+税)。その第三章には「ベースボールとは何ぞや」と題して、今なら小学生でも知っている、ルール・競技場の寸法・ボールなどについて、初歩の初歩から丁寧に伝え啓蒙している。「投手・捕手」を「投者・擭者」と子規は書いている。守備側は〇〇手の形に変化しているが、「打者・走者」はそのまま残っている。明治5年頃に第一大学区の第一番中学(後の開成学校)の英語教師ウィルソンが生徒に伝えたことが端緒とされ野球伝来150年の起源となり、今年の野球選手たちのヘルメットのロゴにもなっている。
しかし図録『ベースボール・シティ横浜』(2013年。横浜都市発展記念館)によれば、横浜居留地の外国人と米軍艦コロラド号の水兵の一戦が、明治4年11月に太田屋新田グランドで行われていて、それを伝える新聞記事が確認可能な日本最初の野球記録と紹介されている。居留地チームの投者はS.D.Hepburn(ヘボン博士の息子)だった。ところが、今年大阪で聴いた報告によると、大阪川口居留地でも在住外国人と米軍艦の兵士の一戦が行われたようであり、目下米国での資料確認などを進めているとのことだった。野球伝来150年の縛りがなくなる2023年には「新説・真説」が広まるかも知れない。
上海大学野球リーグについては、身近な後輩が復旦大学への野球伝道師として尽力したことを駐在中に聞き書きしたことがある。なかなか進まない全国規模の普及浸透の為には、米国の野球資本が中国市場に食指を伸ばすことが契機になる気がする。
全島的に普及し、レベルも高いといわれる台湾球界、戦前の甲子園大会で準優勝した嘉儀農林は映画『KANO』で知られるが、主人公のエースで4番打者の呉明捷は、早稲田大学時代に通算7本の本塁打を放ち、20年後に立教大学の三塁手長嶋茂雄に破られるまでの東京六大学記録保持者で嘉儀市に顕彰碑がある。
「アメリカ人のはじめにしベースボール」のロシア・ソ連への浸透は少なかったようだ。年末封切の『ラーゲリより愛を込めて』には、シベリア抑留中の主人公 山本幡男は手作りのボールで野球を始めて仲間の笑顔を取り戻したが、野球を知らない収容所長から営倉送りにされるエピソードが描かれていた。収容所での過酷な拘束の中で、末期がんに倒れた山本の遺書を仲間が分担して記憶の中に留め、生還して遺族に口頭で届けたというストーリーだった。角川書店創業者一族の辺見じゅん原作のノンフィクション『収容所から来た遺書』をベースにした作品がなぜこの時期に映画化されたのかは不詳だが、『硫黄島』『母と暮せば』に続いて戦争関連の映画に出演している二宮和也の人気もあってか、観客年齢分布は幅広かった。各場面で「ダモイ」(帰国・生還)が繰り返し叫ばれていた。
(井上邦久 2022年12月)