【中国あれこれ】『第十二章 現代中国への道 ⑪ バスケットボール』

「ハバ、今からバスケの小浜監督のところに行ってきてくれ。川崎工場の体育館だ」
「何の件ですか?」
「内容はよく分からんが、とにかくお前をご指名だ」部長からの指示だった。
1990年4月、私は北京駐在を終え、東京本社に帰任したばかりだった。

いすゞ自動車バスケットボール部(当時名:いすゞリンクス)は1988年、現在のBリーグの前身である日本リーグに優勝し、その年、日本のTOPチームとして中国の実業団チームとの親善試合の為に北京、上海に遠征した。当時北京に駐在していた私は、その受入れ準備とチームの世話役を命じられた。北京で1試合、上海で2試合、結果は1勝2敗、当時の中国のバスケットボールのレベルはアジアでは常に国際試合のTOPに君臨するほど強かった。遠征試合で1勝した相手は上海交通大学のバスケットボール部だった。
いすゞリンクスは1988年の優勝後、低迷していた。

「監督、お久しぶりです」中国遠征以来の再会だった。
「忙しいのに呼び出して悪かったな。ハバに頼みがある」
「何ですか。私にバスケ部入れとか言わないでしょうね」と冗談を言った。
「半分、そんなもんだ」
「はあ? どういう意味ですか」
「お前にプレーをしろとは言わないよ」監督が笑った。そして続けた。
「北京に行ってきてほしい。中国のナショナルチームで最近まで活躍したワン・リービン(王立彬)という選手がいるんだが、今はナショナルチームを引退して中国の実業団でプレーをしている。彼をリンクスで獲得したい。中国バスケットボール協会の元ナショナルチームヘッドコーチのL監督に書簡でワンの件を伝えたところ、不可能な話ではないかもしれないと返事がきた。そこで、ハバにL監督と交渉して獲得に動いてもらいたい」
「自分にそんな大役、出来ませんよ」
「出来る。お前はバスケを分かっているから、L監督とは話が合うはずだ。バスケを知らない人間ではダメなんだ」
私は中学時代にバスケットボールをやっていたことから、チームが遠征で訪中した時もそれなりの通訳が出来た。それを小浜監督は見ていたのだ。

ワン・リービン、2メート2センチ、1984年のロサンゼルスオリンピックで中国選手団の旗手を務めた中国No.1のバスケットボール選手だった。バスケットボールファンであれば、彼の活躍をしらない者はいないとまで言われた。低迷ぎみのいすゞリンクスは外国人枠の選手を強化したかった。

後日、詳細条件を持って私は中国国家体育委員会バスケットボール協会を訪ねる為に北京に飛んだ。
中国国家体育委員会バスケットボール協会は1960年代に建てられた古いビルにあった。

「小浜監督から手紙を頂いています。我々協会としては初めてのことですが、国家体育委員会としても、これからは世界に通じる選手の育成と活躍の場を考えなければならないと協議しました」L監督はにこやかに私を迎え入れてくれた。
「小浜はワン・リービン選手に外国人枠の中心になってほしいと考えています」
「ワンは素晴らしい選手です。ちょっと大人しいのですが、闘志を見せればきっと、いすゞのバスケットボールチームのお役に立てると思います」
まだ中国選手が海外の実業団でプレーした実績はなかった。ナショナルチームを離れたとは言え、中国バスケットボール界における超有名選手の放出は難しいであろうと思われた。
しかし、中国国家体育委員会はワン・リービンの日本でのプレーを認めた。背景には各競技の代表選手の海外遠征に必要な外貨の獲得という事情もあった。現在では世界で最も外貨を有する中国も当時はまだ外貨が不足していた。
交渉の結果、国家体育委員会に年間5万ドルの派遣契約料を支払い、ワン・リービンは主事(係長)待遇で契約を交わした。

帰国後、小浜監督に報告する為に川崎工場の体育館に向った。既に契約できたことは電話で知らせておいたので、小浜監督も全てを承知していた。
「よくやってくれた。ついては、先ずL監督を日本に招聘して日本のレベルを見てもらいたいと考えている。招聘の手続きを進めてほしい」
「分かりました。広報部にはワン・リービン獲得の詳細は報告済です」
「分かった。プレス発表は来日が正式に決まった段階で行う」
「来日までビザ取得やら、彼の支度やらあるので数か月かかると思います」
「構わない、来シーズンに間に合えばOKだ。その前にL監督を日本に呼びたい」

ひと月後、L監督が来日した。小浜監督が言った。
「L監督、お久しぶりです。この度はワンのいすゞ参加にご尽力頂き本当にありがとうございました。私には子供がいません。できることであれば彼を養子にしたいと思っています」
「小浜監督はワンを外国人枠ではなく日本人選手として起用したいのですね」
「はい。その通りです。しかし、私はワンの人柄に魅せられています」
「ワンも幸せ者です」
結局この話は実現しなかったが、小浜監督の思いに嘘はなかった。監督はワンが来日後に正式に養子縁組の話をしている。ワンもその話を光栄だと喜んだが、やはり中国人でいることを選んだ。

「L監督、今回の日本滞在で一つお願いがあります。現在、静岡県で高校総体が行われています。各県代表の高校バスケの試合を観戦して、将来有望な選手を見出して頂けませんか」
小浜監督はアジア最強チームの元監督にスカウトを託したのである。L監督の目に留まった選手を大学に入れ、4年後にいすゞに入社させる思惑があった。

L監督の滞在10日間、私は全行程に随行した。
浜名湖近くのアリーナで行われたバスケットボール決勝は、評判通り秋田県立能代工業が優勝した。実はいすゞ自動車バスケ部は元々秋田いすゞ自動車販売会社のクラブチームであった。が故に地元能代工業出身の選手も少なくなかった。浜松グランドホテルで秋田県が主催する優勝祝賀会にL監督と共に招待された。元中国ナショナルチーム監督の突然の出現に選手達は驚いた。司会者から一言挨拶を求められたL監督は笑顔で話した。

「選手皆さん、そして学校関係者の皆さん、優勝おめでとうございます。本日の決勝戦を観戦させてもらいました。素晴らしい試合でした。バスケットボールは頭脳プレーです。相手の動きをどちらが先に読むかで2点の差が生まれます。皆さんのプレーは常に先を読んだものでした。そして、皆さんのプレーには優しさも感じました。相手の選手をリスペクトする姿です。バスケットボールは格闘技ではありません。勿論、気力で負けてはいけませんが、チーム一丸となって全員が同じ考えを持つことが基本です。それを今日はしっかりと見ることが出来ました。素晴らしい試合にご招待頂き、感謝します」

私はこの話を通訳しながら仕事にも共通する点を感じ、今でも手帳に書き残している。
L監督の帰国後、ワン・リービンの正式来日の日程が決った。スポーツ新聞には「いすゞリンクス、中国オリンピック選手を獲得!」と掲載された。同じく中国のメディアもワンリーピンの日本チーム移籍を伝え、日中友好スポーツ大使だと報道された。

その後、本人と会うために再度北京に出向き、ワンを迎え入れる為の生活における要望や日本語学習の内容等について本人と話し合った。大きな体に似合わないほどに、少し、はにかんだ大人しい性格だった。初めての海外生活に不安を感じている様子がよく分かった。
「大丈夫、私がいつも近くにいるから。なんでも相談してください」彼の緊張を少しでも和ませたいと思った。
「謝謝」ワンが笑顔で頷いた。

来日当日、成田空港到着出口で広報部の課長と共に出迎えた。
「ワン選手、ようこそ日本にいらっしゃいました」広報課長が握手を求めた。小柄な課長は見上げるように手を伸ばした。
会社の寮のワンの部屋には特別に用意した大きなベッドが置かれた。彼の日本生活が始まった。私はしばらくの間、毎日、仕事が終わると夕方から体育館に行った。練習の通訳とワンの様子を見るためだった。日本人選手は温かく彼をチームに迎えた。チームの主軸であったテッド・ヤング、セドリック・ジェンキンスやピーター・ティーボーのアメリカ人選手と並んでも負けない身長でチームの大きな壁となった。
最初は緊張していたワンも次第にチームに馴染み、チームメートからは「リービン」と呼ばれリーグ戦で活躍した。さすがは中国ナショナルチームの主将を務めただけのことはある。外国人選手の出場人数制限からどうしてもアメリカ人選手の出番が多かったが、ワンがコートに出ると会場から大きな声援があがり、ワンもそれに応えるようにダンクシュートを決めていった。

ワン・リービンは、いすゞで約3年間活躍をしたが、年齢を考え1992年、いすゞリンクスを最後に、現役を引退した。その後、中国籍の選手としては初めて台湾プロリーグの監督に招聘され、台湾バスケットボールの発展に寄与した。

いすゞは1995年から日本リーグ4連覇を成し遂げ、1999年には惜しくも準優勝となるも翌2000年には再度王者に輝いている。その栄光の場にワンの姿はなかったが、それに導いた要因の一つにワン・リービンの存在があったと私は信じている。

ワン・リービン(王立彬)、純粋にバスケットボールを愛し、中国・台湾、そして日本バスケットボールの発展に貢献した男、現在は中国バスケットボール協会副主席の職にあると聞くが、台湾問題や日中関係のギクシャクした現状を、きっと憂いているに違いない。彼こそがスポーツを通じ、国境を越えた真の友好を知っているはずである。

日中経済に身を置く者として、ワン・リービンを思い出す度に互恵平等でなければならないことを自分に言い聞かせている。

(幅舘 章 2025年2月)