【中国あれこれ】『第十三章 現代中国への道 ⑫ かけひき』

1990年代後半から2000年代にかけて、中国の自動車産業は国内需要拡大期(第10次五か年計画)を迎え、政府は全需(2000年時で380万台)拡大計画を打出した。その後、第11次五か年計画で開催された北京オリンピックを機に車両全需は大きく右上がりとなる。政府は海外、特に日本からの完成車輸入に依存しない国内ブランドの技術向上を自動車政策として各中国車両メーカーに対し、独自開発強化を要請した。しかし、車両の心臓であるエンジン開発に中国各社は苦労した。それが現在のEV開発で中国が世界をリードする起爆剤になったことは間違いない。ガソリン・ディーゼル夫々の独自開発が日本、欧米に追い付けないのであれば、EVで世界市場を奪取することに自動車産業政策の舵をきったのである。

EV時代到来以前、中国のトラックメーカーは国策に従い、耐久性の高い製品開発に注力した。それは中国を代表するトラックメーカーである第一汽車も東風汽車も同じであった。いすゞ自動車は、重慶で小型ディーゼルエンジン製造会社を立ち上げ、現地合弁会社で生産する小型トラックに搭載しているが、大型トラック用エンジンの生産はそれから何年も後のことであった。中国のトラックメーカーからエンジン単体の引き合いが増えた。しかし、搭載後の品質保証において、中国メーカーの信頼度がまだ高くなかったことから引き合いに応える為には、かなり厳しい条件を提示することになった。

私が中国大手トラックメーカーである東風汽車の組立子会社と最初の商談の為に武漢を訪れたのは1998年のことだった。見積価格と諸条件については事前にファックス(当時の書類の通信手段は主としてファクシミリだった)しておいたので、商談に出てきた先方の担当者は既にその内容を把握していた。

「五十鈴汽車の幅舘です。本日はよろしくお願いします」と名刺を差し出した。先方の担当者は無言で名刺を交わした。名刺には『〇〇汽車製造廠工程師』と書かれ、名前をWと言った。工程師とは国が認めたエンジニアを意味する。明らかにこれから友好的な商談をする態度ではなかった。商談に入る前に事業状況の把握をしたかった我々は世間話でその場を和ませたかった。しかし、先方はろくに応じることもなく苛立ちを見せた。仕方がなく私は同行した技術者にエンジンスペックの説明をするように促し、エンジンカタログを広げた。最初は黙って聞いていたW氏が言った。

「私は自動車エンジンの技術者なので、余計な説明は不要だ。貴方達より理解している」 それは、我々を軽視、いや敵視していると言っても良いかもしれない態度だった。
「そうですか、ではオファー条件を確認させてください」私は商談に入ろうと切り出した。
「それも必要ない。このオファーシートは話にならないから出し直してほしい」
「話にならないとは、どういう意味でしょうか?」
「こんな価格と条件を出してくるとは、五十鈴は全く友好的ではない。一台二台の引き合いではない、300基の商談ですよ。商談にならない」
「大きな商談であることは承知していますが、我々もギリギリのオファーです。貴社とは初めて取引で貴社の事業状況も分かりません。先ずは貴社の事業内容をご説明頂けませんでしょうか」
「我々は東風汽車グループですよ。信用できないのですか」
「そうではありません。エンジン単体を購入するということは、そのエンジンを搭載する車両の全体の仕様が分からなければ、技術的な問題点も分かりません。どのような組み立て工程であるかについても教示頂きたいと思います」
「そんなことは企業の機密事項であり、開示することは出来ないし、我々は搭載技術については五十鈴のエンジン仕様を研究しているので問題ありません」
「それでは、品質保証について詳細条件がきめられません」

我々も東風汽車のトラックエンジン能力については理解しており、高性能のエンジンの調達が急務であることも分かっていた。中国側の各トラックメーカーは夫々に海外メーカーとの協業を模索していた。

「そもそも、日本は戦時中、中国で多大な悪事を行い、中国人を迫害した。その反省があればこんな価格や取引条件を出せないはずだ!中国の為にこちらの要求を受け入れるべきではないのか。戦争で我々が受けた損害は計り知れない、日本はそれを正しく認識しなければならない」
「貴社の要求とはどのようなものですか」私はW氏が最初から用意していた『かけひき』のカードをきってきたのだと思い、冷静に先方の要求を尋ねた。
「先ずは五十鈴側の提示が先だ」
「それでは、要求に応じる検討が出来ません」

先方は渋々用意していた要求内容を開示した。価格は見積書の半額、取引条件として書かれていた中に『中国側が生産した車両の目標品質を五十鈴は保証する』という一文があった。そのような条件を承諾することは出来ない。
「これでは、五十鈴としては受けることが出来ません」と答えるしかなかった。

「日本が中国に与えた損害はこんなものではないことを貴方は理解していないのか!」
「お見受けしたところ、Wさんは私とほぼ同世代ではありませんか? 我々は過去に悲しい戦争があったことは認識していますが、経験してはいません。だから、我々の時代で対等に友好関係を作るべきであり、過去の戦争責任と民間ビジネスを一緒にすることは間違っていると思います。私が間違っていますか」
「そのような態度が友好的ではないと言っているのだ」
ひょっとすると、W氏は身内に日本との戦争で酷い目に遭った方が居たのかもしれない。しかし、例えそうであっても同情すべきことと国際ビジネスを混在させるべきではない。
「分かりました。では今回の件はなかったことにしましょう。五十鈴はそのような条件で商談には応じることができません。貴社には売りません」
相手側が何か言おうとしたが、我々は席を立った。

宿泊先のホテルに戻る途中で先輩の技術者が心配そうに聞いた。
「ハバちゃん、よかったのか、あんなこと言って」
「ヤバいっすよね。初めての大きなエンジンの引合いでしたから」
「どう報告するのよ」
「クビかな。所長から怒鳴られますよね」私ももう少し辛抱すればよかったと思いながらも、あの場で商談を続けることは出来なかったことを自問していた。

もやもやしながら、ホテルのレストランで夕食を食べている時だった。フロントの係員が私のところに来て言った。
「お客様が幅舘さんと会いたいとロビーでお待ちです」
係員に案内されてロビーに向かった。そこには私よりも年配の二人の中国人が私達を待っていた。

「初めまして。〇〇汽車製造廠のKです」差し出された名刺には副総経理と書かれていた。副社長である。もう一人はSと名乗り、総工程師の肩書が書かれていた。〇〇汽車製造廠の技術者の最高責任者だった。
「初めまして。五十鈴の幅舘です。本日は残念な結果を招いてしまい大変申し訳ございません。W氏とは詳細について協議したかったのですが、それが出来ずお詫びいたします」
「W? それは誰ですか? 弊社にそのような者はおりません」
S氏が含みある表情でほほ笑んだようにも見える顔で言った。その時の微笑を私は今でも忘れられない。
「工程師のWさんですよ」私は間違いないと交わした名刺を見せた。
「うーん、居たかもしれませんが、もういません」とK氏が行間を読めとばかりに言った。
「えっ? いないとは、、、、」私は笑顔なのに目が笑っていないK氏の言葉に返答することが出来なかった。
「幅舘さん、明日、もう一度、話を仕切り直して頂けませんか。先ずは弊社のトラック組立て事業に関して説明させてください。我々は五十鈴エンジンの搭載技術を研究してきました。勿論、完全ではありません。エンジンの輸入と同時に技術指導を望んでいます。どうか、明日、もう一度、意見交換をお願いします」
「分かりました。我々も何とか最大限の協力をしたいと思います」
決裂した商談にどうしたものかと気が重かった私は再度射した光明に胸を撫でおろした。

翌日、東風汽車のトラックの将来エンジン開発計画を聞き、繋ぎのエンジンが必要であることを理解した。五十鈴のエンジンを研究して独自開発したいことも正直に説明があった。 価格に関してはかなり差があった。双方で歩み寄れる価格を一度持ち帰ることにした。当時は携帯電話もメールもない。即答は出来なかった。もし、現代の中国ビジネスであれば、即断が求められていたであろう。
品質保証に関しては、東風号の品質保証をいすゞが負うことは出来ないことの理解を求めた。結果、いすゞが技術指導を実施して完成した車両だけを対象に品質保証を受けることで合意された。いすゞからの技術者派遣に関する費用に関しての交渉が一番苦労すると思われたが、意外にそれに関しては理解が得られた。
こうして、中型トラックの6気筒エンジン交渉はまとまった。

W氏が〇〇汽車製造廠から本当にいなくなったかどうかは定かではない。もし、あの最初の交渉も先方の『かけひき』だったとしたら、私はまんまとそれに乗ってしまったのかもしれない。

現代の日中ビジネスでは、このようなかけひきはないと思うが、強かな中国は常に何か『かけひき』カードを持っていると私は思っている。

その後、W氏が日本を訪れ、日本の良さを再認識してくれていると信じている。

(2025年4月 幅舘 章)