1990年代、第8次から第9次五か年計画にかけて、中国は外貨獲得の為に外資系企業の誘致に全力をあげた。自動車産業もフォルクスワーゲンが1984年に上海汽車と合弁生産を始めて以降、外資自動車メーカーの投資環境も徐々に整い始めていた。自動車会社の合弁事業では当時、外資がマジョリティをとることは認められていなかったが、将来の巨大市場のポテンシャルに外資各社は次々に進出拠点を拡大させた。いすゞ自動車はすでに南昌と重慶に合弁生産拠点を稼働させていたが、自動車産業における中国の規制は厳しく、ビジョン通りにはなかなか進まなかった。大きな投資が圧し掛かっていた。「中国事業に投資する価値があるのか」「中国事業で投資回収なんて無理だ」陰口を叩かれた。会社全体の業績が悪化していた。それでも中国市場は諦めなかった。
「ハバ、異動だ。3月1日付けで北京」室長から呼ばれ、告げられた。
「北京?って駐在ですか?」前回の北京駐在から帰任してまだ4年も経っていなかった。
「そうだよ」何か文句があるのかと言わんばかりだった。
北京から帰任してから私は台湾を担当していた。台湾市場はいすゞの海外市場の中でも数少ない直貿エリアだった。直接ユーザーとの商談が楽しかった。その内示は青天の霹靂だった。
1994年3月、私は再度北京の地を踏んだ。激動の一年が始まろうとしていた。
1993年、中国国家指導部は第二次李鵬政権となり、序列第一位の朱鎔基氏が経済担当の国務院副総理に任命された。朱鎔基氏は1998年に李鵬総理の後を継ぎ第五代総理となったが、副総理時代は経済成長を維持するために外資導入を奨励するなど、改革開放を推進させ、経済成長を加速させた手腕は海外からも高く評価されていた。いすゞは朱鎔基副総理とのコンタクトを試みた。中国自動車産業における商用車の国家政策に「五十鈴」の存在を最高位で認知させることが目的だった。国務院に辿り着ける人脈を探った。そして、朱鎔基副総理といすゞ関和平社長との面談が実現した。いすゞは小型トラックの中国国産化を機に中国における事業の拡大を狙っていた。
「五十鈴には技貿契約で小型トラックの技術譲渡をして頂いた。そのお陰で品質も上がり生産量も増大化しています。五十鈴が今後、さらに事業拡大を考えるのであれば、中国で投資会社を設立してはいかがですか?我々も更なる五十鈴の我が国における発展に期待したいと思います」
副総理のその言葉にいすゞは中国事業の軸を定めた。自動車メーカーが投資会社を設立した例はまだなかった。100%出資による投資会社が出来れば関連事業の拡大が図れる。現地完結型事業体制の構築に向け、関社長の大号令の下、機密プロジェクトが動き出した。1994年3月、北京事務所内に新会社設立準備室が設けられた。必要機能部署から夫々担当者が北京に赴任した。後に私も含め赴任者は全員新会社に出向となる。
北京駐在員事務所は一気に賑やかになった。ローカルスタッフの採用も増やした。当時は中国人スタッフの採用は国家機関である外国企業服務公司からの派遣が義務付けられていたが優秀なスタッフが揃った。設立準備は白紙状態から始まった。
投資会社の設立にはいくつかの国家機関が絡むことになった。中でも国家計画委員会と機械工業部汽車司との打合せは数えきれない。関係当局も初めての自動車産業における投資会社の設立に夫々担当者の言うことが違った。携帯電話などない時代、当局に連絡するのも容易ではなかった。困難を極めたのは「可靠性報告書(FS企画書)」の策定であった。事業性の可能性を定性的且つ定量的に描く当初時の事業企画書である。現在の投資性統括会社とは異なり、当時、既に本社から直接投資された企業を新投資会社の傘下におくことは認められておらず、事業は新規案件で企画しなければならなかった。
全員が多忙を極めた。中国当局との確認業務はスピードが上がらなかった。膨大な資料の整理で一日の時間が瞬く間に過ぎる毎日であった。
「設立前からいくつか投資案件を検討しておく必要がある。ハバ、中国進出を考えているウチに関係するサプライヤーを調べてリスト化しろ。急げ」全体進捗日程を管理していた先輩の指示だった。私はサプライヤーに中国進出を打診した。しかし、簡単に応じるわけもなく、計画に織り込めるサプライヤーは2~3社に止まった。
会議室に貼れたアクションプランには、終わった作業から赤字でチェックマークが記されていった。本社からも必要に応じ応援人員が出張で北京に滞在した。ローカルスタッフが帰宅した後も駐在員は残業が続いた。
「おい、皆んな」夕方、北京所長が事務所に残っていた全員に声をかけた。
「今日は終わりにして、皆んなで飯食いに行こう。そんなしかめっ面は仕事をする顔じゃない。今日は仕事を忘れて飲みに行くぞ」
一番若手だった私は山のような資料整理に追われていた。「冗談じゃない、そんな時間ねーよ」と思った。
「ハバ、行くぞ」と先輩が肩を叩いた。
「所長の言う通りだ。ちょっと息抜きせんといい仕事ができんよ」その先輩の開き直った顔が私の背中を押した。
その晩、全員が飲んでくだを巻いた。くだらない話に意味もなく皆んな笑った。あんなに笑ったのは久しぶりだった。張りつめていた気持ちが和んだ。
それからも多忙は続いたが準備は最終段階に入っていた。キーマンは後に国家副総理となった国家計画委員会の曾培炎副主任(副大臣)がだった。本社から何度も役員が曾培炎副主任との面談の為に訪中した。曾培炎副主任もいすゞの熱意を感じ、全面的にいすゞに寄り添ってくれた。
1995年の春節前に最終作業であった「可靠性報告書」が完成した。厚さ7センチほどのバインダーが3冊にも及んだ。当局にそれを提出して国家計画委員会からの設立批准が下りたのは、それから数カ月後のことだった。
「批准が下りたぞ!」所長が事務所にいるスタッフ全員に告げた。待ち焦がれたニュースだった。わーっ!やったー!と事務所内に歓声が上がった。全身の力が抜けるような感覚と同時に胸にこみ上げるものを感じた。椅子から立つことも出来ず無言で両手を突き上げた。
「さあて、また忙しくなるぞ。明日から開業式典準備に入る。直ぐに実行計画を立ててくれ」所長の指示で全員が次の仕事に取り掛かった。開業式典の準備項目を洗い出した。私は広告を担当することになったが、何を媒体とするのか悩んだ。関係各社への挨拶状の作成を進めたが、それを見た所長が言った。「駄目だ、もっとインパクトのあることを考えろ。人民日報に掲載しろ」
中国最大メディアである人民日報社、正式な位置づけは中国共産党中央委員会の機関紙である。そんな国家のメディアに民間企業の広告を載せてくれるのだろうか。また人脈を辿ることになった。人民日報社など国家メディアの中に入ることは禁じられていた。何度も社屋の一階で編集担当者と会った。
人民日報への広告掲載が決った。1995年10月「五十鈴(中国)投資有限公司」設立。開業記念式典の当日、紙面の三分の一を使い大々的に設立を発表した。
開業記念式典は人民大会堂で盛大に開かれた。日中双方の関連機関、関連会社、顧客など1000人を超える招待客が人民大会堂大ホールに集った。式典に先立ち、人民大会堂の貴賓室において記者会見が行われた。朱鎔基副総理の薦めもあり、中国側から栄毅仁国家副主席が関社長と並び会見に臨んだ。
「五十鈴は中国自動車産業に大きな功績を残してくれた。中国市場は正にこれから大きくなっていく。今後も共に発展することを期待している」という栄毅仁国家副主席の言葉が我々事務局の胸に響いた。
大宴会が盛大に始まった。祝いの獅子舞、中国の歌手の歌、手品などなど、来賓に笑顔が絶えなかった。我々事務局は宴会中も料理を口にすることなく会場内を走り回っていた。特に上層部の人間の動きに即時対応できるように気を張っていた。
宴会は成功裏に終わった。主賓が退席した後、その日の為に用意した土産を会場出口で来場者全員に渡した。全員がいなくなった会場を改めて振り返り見た。大会場の広さがこれから進む大きな使命を表しているように思えた。
第14次五か年計画もいよいよ最後の年となる2025年が間もなくやってくる。中国経済の低迷という報道が続く中、それでも自動車産業は確実に成長している。中国新自動車産業政策が発表された1994年の全需は400万台にも満たなかったが、今では世界で群を抜き3000万台に達した。かつて生産技術を始め、自動車の作り方を一から学び直したと言っても不思議ではない中国は今、世界の名だたる自動車メーカーと肩を並べ、更に発展し続けている。しかし、世界一の自動車大国となったその背景には政府機関と共に努力した多くの人がいたことを忘れてはならない。それは恐らく自動車産業に限らず、中国市場に賭けた日本の多くの中国担当者は皆そう思っているに違いない。
(幅舘 章 2024年12月)