【中国あれこれ】 『第十章 現代中国への道 ⑨ 長安街の広告』

1990年代に入ると中国の自動車産業は大きく変革の時代に入った。政府機関の入札による 完成車輸出ビジネスは継続されたものの、1994年に打ち出された中国新自動車産業発展政策により技術向上を狙った中国自動車メーカーはKD(ノックダウン)方式による現地生産にシフトした。初期段階でのKDとは、タイヤとバッテリーを外したほぼ完成車に近い荷姿で出荷されたが、段階的に国産化が進み、現地で調達する中国製の部品比率が増えていった。

重慶と南昌に合弁事業を構えたいすゞ自動車は品質安定のために日系部品サプライヤーの 中国進出を切望し、中国の事業環境を理解してもらう為に現地視察ツアーを企画した。将来の巨大市場を考えた二十社余りの部品サプライヤーのトップが訪中した。中国は計画経済 からの脱却、そして市場経済の発展に向けギアを上げた。その後の中国自動車産業の発展は驚異的に加速した。時代は第9次五か年計画となり、第10次五ヵ年計画の自動車産業「国内需要拡大期」の助走段階に入っていた。サプライヤーのトップ達はその現実を目の当たりにした。

自動車産業のみならず、第9次五か年計画時は多くの生産型の外資企業が中国事業を展開した。北京の目抜き通り長安街には、外資ブランドのネオン広告が目立つようになっていた。

「これからは中国製のISUZUトラックが走ります。企業イメージの広告を出しませんか」  私はいすゞの現地法人設立と共に出向となり営業企画担当として「五十鈴」がISUZUであることを中国市場に浸透させたいと思い、上司に提案したが聞き入れてはもらえなかった。

この頃、上海を訪れた人間であればその存在を覚えていると思うが、上海虹橋空港ターミナルビルから外に出ると、誰の目にも飛び込んでくる大きな日本企業の広告看板があった。 『TOYOTA』だった。後に日中投資促進機構の事務局長に就任した当時のトヨタ自動車の北京事務所長S氏と話す機会があった。

「さすがトヨタさんですね。あんなに大きな看板を虹橋空港に出せるなんて」      
「プライドにはプライドだよ」中国を熟知したトヨタマンの言葉が胸を打った。

俺も看板をあげたい。トヨタに負けない看板をあげたい。 

部品サプライヤーのトップ達は、翌日から市場環境視察を控え、長安街に面した「中国大飯店」のバンケットルームでいすゞ主催のパーティーに集った。当然、いすゞのS社長が主催側の代表として挨拶をするはずであったが、「宴会は任すからやっとけ。俺は出なくてもいいだろう」。その言葉に同行したK専務が返した。
「そんなわけにはいきませんよ、社長が出ないと会が成り立たんでしょ」
「何の為に専務が来ているんだ」社長には何か考えるところがあったように見えたが、私はその会話を聞かないふりをしていた。

S社長は結局パーティーに顔をみせることなくホテルの部屋に戻った。
「ハバ、お前、社長と飯食ってこい」K専務が言った。
「えっ? 私がですか」
「社長に何も食わせないわけにはいかんだろ、いいからお前が行ってどうするか聞いてこい。    いいか、間違ってもこの会場の周りには来るなよ。分かってるな」
駐在員は社長の訪中時には話す機会もあったことから、私もS社長とは言葉を交わす程度のことはあったが、二人きりになることはなかった。部屋のドアベルを押した。
「おー、どうした?」
「専務が社長がお食事をどうされるのか伺ってくるようにと言われまして」
「そうだな、腹減ったな。ちょっと待ってろ、一緒に食いに行こう」
「はい。・・・・・(まじかよ、二人でか・・・)」
支度をした社長が出てきた。
「何か食いたいものあるか?」
「いえ、社長がお召あがりになりたいもので構いません」
中国大飯店はシャングリラホテルとの合弁であり、シャングリラにある中華料理は、どこのシャングリラも「夏宮」という高級店が出店していた。パーティー会場は地下にあった。   
二階にあるこの「夏宮」であれば安心とばかりにS社長を誘導した。
「社長、こちらはいかがでしょうか」
「おー、いいな。ハバ、これ二人で食おう」と入口の水槽に入ったロブスターを指差した。大きなロブスターだった。そんな高級なものは食べたことがなかった。
「刺身にしてもらえ。あとはお前に任す」

料理が運ばれて自分の愚かさに気が付いた。中華料理は二人で食べるには多すぎた。それでも普段話すことのできない社長との会話が進んだ。
「ハバ、なんで社長はパーティーに出ないんだって思ってるだろ」
「いえ、そんなことは・・・」と言いかけたが、社長の次の言葉を待った。
「海外担当の専務がいて、中国事業担当の取締役、中国事業部長、中国総代表、中国事業を夫々に進めなければならない幹部連中がいるところに俺がいたら、サプライヤーの社長達も本音を話し難くなる。サプライヤーの考えを聞き出すためには社長はいない方がいいんだ」
若輩者の私は、それに返す言葉が思い浮かばなかった。
ロブスターの刺身がほぼ二人で食べ終わろうとしていた。
「ところで、お前、ネオン看板を出したいんだってな」突然だった。
「はい。どうして社長がそれをご存じなのですか」
「お前の親分が『ハバが生意気にもISUZUの名前を売る時だ!』って毎日のようにうるさいんですよって言ってたぞ」
私の上司だった中国総代表は社長がOKを出すと分かって私のことを話していたのだ。
「申し訳ございません」
「なんで謝る、いいよ、やってみろ」
「よろしいんですか」
「おお、いいよ。どうせやるならデカいやつを上げろよ。その代わり、しっかり儲けろ」思いもよらない話だった。
「はっ、はい!ありがとうございます。頑張ります」声が裏返った。

社長一行が帰国した後、早速ネオン看板の企画書を書いた。当時、看板を上げるためには  当局の審査を通さなければならず、広告代理店D社とは詳細な打合せを重ねた。場所は長安街にある日航ホテルとの合弁であった「京倫飯店」の屋上に決まった。
数か月後、幅50メートルのネオン看板があがった。
そして、ネオン点灯の日を迎えた。京倫飯店の向かいのビルの屋上に点灯ボタンが用意され、陽が落ちるのを待った。18時、中国総代表がボタンを押す、辺りの明るさが変わった。   長安街を歩く人々が一斉に上を見上げた。白地に赤い文字が眩いばかりに光輝いた。
『ISUZU 五十鈴』
長安街で一番大きな看板だった。
その後の反響は大きかった。五十鈴がISUZUだと認知された。

しかし、それから1年も経たずに突然、広告規制条例が公布され、長安街に上げられていた全ての企業のネオン広告は外されることになった。首都北京の長安街は国の顔でもあり、外資のネオン広告は不都合な物とみられたのだ。長安街からネオンが消えた。

現在の長安街はどうなのであろうか。高層ビルが建ち並び、再び国の顔は明るく輝いていることだろう。恐らく今では外資企業広告の代わりに世界に進出している中国企業の広告が至るところに輝いているに違いない。そして、それらが世界から訪れる者達に中国が経済大国となった証の如くその輝きを見せつけていることに何ら疑問を持つことはない。

(幅舘 章 2024年10月)