【中国あれこれ】 『第九章 現代中国への道 ⑧ 中国モーターショー』

1988年晩夏、上海の中心地に位置する旧ソビエトの建築様式で建てられた上海展覧中心では各国の自動車メーカーが準備に追われていた。上海国際汽車展覧会、上海国際モーターショーである。北京と上海が隔年で開催される国際モーターショーは1985年に始まった。1955年に完成した上海展覧中心は、中央ホールを中心として両翼にいくつもの展示室があり、現在のモーターショーの展示とは様相が異なっていた。

大型車メーカーには屋外ブースが用意された。いすゞ自動車はVOLVOと並び、来場者を最初に迎える場所に陣を張った。当時のモーターショーは現在のような派手やかなものではなく、どのメーカーも市販車を中心に何らパフォーマンスもなく展示するだけのものだった。しかし、当時の中国車に比べれば一般中国人の目には華やかな展覧会であったに違いない。連日、各社ブースにはパンフレットを入手しようと中国人の長い列ができた。

いすゞ自動車は、大型、中型、小型、ピックアップの4台と「客寄せパンダ」として前年にタクラマカン砂漠で試験走行をした砂漠専用トラックを砂漠の傾斜を模した特設ブースに飾った。大きなタイヤを装着した砂漠専用車の迫力は来場者を驚かせるには十分であった。

国際モーターショーへの出展にはかなりの費用がかかる。展示車両は半年も前から特別な塗装をして準備した。日本からの輸送も特別管理の下で行われた。当然のことながら輸送費は通常よりも高額になった。現地主催者との細かな打合せは駐在員の仕事だった。

開会式の壇上に上がれるVIPの数が限られた。いすゞは副社長の訪中が決まった。壇上の席を確保しなければならない。主催者と交渉するために私は北京事務所に蓄えていた日本のタバコ数カートンを抱えて上海に飛んだ。当時の交渉事は電話では全く意味を成さなかった。
「開会式の壇上席にいすゞを入れて頂きたい」
「各社みな同じ条件なので確約は出来ない、政府関係者が優先になる。出展企業の来賓はステージ下に来賓席を設ける予定だ」
「全ての企業代表がそこに座るのか」確約できないと言った言葉が気になり尋ねた。
「・・・・・・」主催者が黙った。一部の企業代表が壇上に座る可能性を否定しない態度だった。
「頼みます。壇上の席を用意して頂きたい」
「分かった、席に余裕があれば、いすゞを優先にする」口頭ではあるが主催側が約束した。
「謝謝、よろしくお願いする」しかし、これだけで確約された保証は何もなかった。

当時、中国は国策として物流改革の為に品質の良い日本製トラックの輸入を増加させた。会期半年前、本社から指示があった。展示車両の一台を「技貿結合契約で大量に輸出された中型トラックを現地で調達しろ」というものだった。中国市場で最も輸出されていた6トン車を市販モデルとして展示するためだった。技貿結合契約とは小型トラックの生産技術を中国側に譲渡する代わりに大中小合わせて4万台の完成車を中国側が輸入するという大きなプロジェクトであった。国策で輸入された車両は中国汽車貿易総公司がディストリビューターとして中国全域に販売網を展開していた。事前にアポイント取り、華東地区での販売を担当する中国汽車貿易総公司上海分公司を訪れた。メーカーの人間が販売店を訪問することは珍しいことではなかったが、その目的は販売に対する表敬訪問が主であった。しかし、私の目的は違った。
「半年後に開催される上海モーターショーに6トン車を展示したい。販売前の車両を一台、貸してもらえないか」断られることを覚悟で切り出した。
「何だって? 輸入車を貸し出せというのか」上海分公司の担当者が少し驚いた表情をみせた。
「その通り、開会式の前日から閉会当日まで11日間、貸してほしい。その間、販売出来ない補償金は負担する」断られれば同じトラックを生産しなければならない。中国側もこの同型車は一万台以上輸入しており、展示車両を会期後に中国で転売することは簡単ではなかった。
「趣旨は理解した。総経理と相談するから数日時間がほしい」
「可能性はあるか」
「販売先が決まっていない車両はまだあるから物理的に貸すことはできるが、上が何というかは分からない、簡単ではないと思う」
「よろしく頼みます」私は上海分公司をあとにしてエレベーターを待った。エレベーターの扉が開いた。中から数人が降りてきた。私はその人達が降りたのを確認し乗りこもうとしたその時だった。
「フーグアン(幅舘)?」と誰かが私の名前を呼んだ。エレベーターから降りてきた男だった。技貿結合契約調印式で来日した当時の中国自動車行政機関であった中国汽車工業総公司の幹部R氏だった。
「わー!R先生、お久しぶりです。上海に出張ですか?」彼は北京の総公司にいるはずだった。
「そうじゃないんだ。貿易公司に出向している」彼は数分前まで交渉していた中国汽車貿易総公司上海分公司の総経理として出向していたのだ。彼とは東京で乾杯を重ね意気投合した仲だった。
「幅舘はどうしてる?ウチに来たのか?」私は経緯を話した。
「安心しろ。車両は貸し出すから、俺の部屋で少し話せないか」
結果、車両は燃料費、臨時ナンバー費用、車両管理者派遣費用を合わせ日本円約5万円で  借用することが出来た。期間中の補償金を申し入れたが、そんなものは要らないと聞き入れられなかった。R氏の部屋に再度現れた私を見た担当者が目を丸くした。
「初めての日本は楽しかった。日本酒は美味かったな」R氏は訪日時の話を懐かしんだ。
「開会式には俺も出席する。いすゞのブースはどこだ?」
「いすゞは屋外ブースです。東京からはM副社長が訪中します」
「Mさんか。調印式で乾杯したな、開会式で再会できるな」
「はい、是非。ただ、開会式のステージにMの席が確約されていないのでちょっと困っています」
「そんなこと問題ない。俺の隣に用意させる。心配不要だ」とそんな小さなことかと言わんばかりにR氏は笑った。

開会1週間前、日本から現場準備の為に出張者が上海に着いた。
税関チェックを受け、展示車両が配置された。巨大な砂漠専用車は他の出展企業からも注目された。タクラマカン砂漠で一緒に苦労した石油工業部のメンバーを招待した。彼らは共に砂漠を走行した専用車に向かって言った「よくやった。また会えて嬉しいよ」と。

借り入れた車両は開会式前日に運び込まれた。きっと埃まみれで搬入されると思っていたが、いすゞスタッフはその車両に驚いた。工場で完成したばかりかと思えるほど、その車両は輝いていた。ドライバーが笑顔で言った「大いに宣伝してくださいよ」と。

開会式、副社長は出展企業代表の一人としてステージ案内された。R氏が壇上から私に手を振った。

2024年4月、北京国際モーターショーが開催された。今では世界のメーカーが中国のモーターショーで新車の発表を行うまでになった。中国は自動車大国として確実に世界へ躍進している。

開会式終了後、R氏にお礼を言い日本酒を渡した。出張者に頼んで買ってきてもらった日本酒だった。
「また乾杯できるな」
R氏の優しい笑顔で準備作業の苦労が報われたことを今も鮮明に覚えている。

(幅舘 章 2024年8月)