【多余的話】『藻刈舟』

節分立春まであと数日という冷え込みの厳しい朝、中之島美術館へ向かった。「開館一周年記念特別展『大阪の日本画』」を遠来の高橋秀治氏(豊田市美術館長)とご一緒した。日本画とは西洋から伝来した絵画(洋画)に対応してできた比較的新しい言葉で、古くから日本で描かれてきたのは大和絵と言います、と早々に教わった。フェロノサが規定解説したJapanese Paintingや岡倉天心が提唱した日本絵画の理念を知り、日本画とは単純に胡粉や岩絵具を使って画かれた絵であるという思い込みを修正した。

展示第一章の「北野恒富とその門下」・第六章「新しい表現の探求と女性画家の発展」の女性画家の充実ぶりに先ず驚かされた。大阪の富裕な商家子女の教養として書画を習う文化が形成されていたことを想像させる。一方、男性画家には地方から大阪に出て画家を生業とした人がいて、他郷の者の眼で天神祭や鯛などの大阪の風物を取り上げている印象が残った。魚の画材には伝統的な鯉よりも、姿に勢いがあり、食べて美味しい鯛が好まれたという説明文には笑った。

第五章「船場派―商家の床の間を飾る画」、森一鳳の『藻刈舟』が楽しかった。湖沼に繁った水草や藻が舟の邪魔にならないよう刈り取り、それを肥料にする夏の風物を古くから創作の題材にしてきたようだ。大坂の商家では藻刈⇒儲かる、に通じるとして好まれた由。あるブログには「梅村景山、桜村という絵師が居て、彼らも藻刈舟をよく描いたが、如何せん一鳳の人気には遠く及ばなかった。それで、一鳳の藻刈船は「儲かる一方(一鳳)」、景山のそれは「倍損(梅村)」、そして桜村に至っては「大損(桜村)」と巷間言われたそうだ。巷間といっても当時「大名金貸し」としてバブル期にあった、大阪商人の間でのこと。如何にも大阪らしい話である」とあった。

一鳳は幕末の大坂で活躍し、明治4年に亡くなっている。幕藩体制が崩壊し、「大名貸し」が不良債権化して大坂商人が「大損」した頃のこと、夏目漱石が幼くして塩原の家に養子に出され、天然痘に罹った頃に重なると連想すれば森一鳳も少しだけ身近な存在になる。

大阪商家の床の間を飾る日本画の需要は根強く、算盤に忙しい男から距離を置いて、教養としての日本画(官展などへの進出は不詳)にいそしむ「いとさんこいさん」が少なくなかったのかも知れない。

江戸・東京にも、欧州でその技を称賛されて帰国した後に、官展や画壇に背を向けて、床の間に飾る小品を頼まれて画いた渡辺省亭がいる。岡崎市での回顧展でまとめて観たことを思い出した。

開港大坂の新時代の発展を期待された川口居留地は中之島から少し下流の中州にあった。淀川水系から運ばれる土砂が堆積し、外航船の寄港が激減したため、大阪港は衰退し神戸港の後塵を拝した。

1900年前後、大阪の綿工業の隆盛、新規産業の勃興というヒンターランドの成熟と住友資本を核にした築港新設計画が推進された。米国・横浜/神戸・上海・香港・欧州の既存航路から外れた、渤海湾や朝鮮半島など東北アジア航路の開発が進み、20世紀初頭の大阪・大阪港は大いに繁栄した。山東省煙台を核とした中国東北部からの貿易人(芝罘商人・北幇)の短期出張者も増えた。貿易統計は綿関連と雑貨に大別されており、雑貨には人絹も含まれ、魔法瓶・玩具・食品・薬品などで過半を占めたようだ。雑貨を仔細に腑分けすれば当時の大阪の業態や現在に続く産業の根源が見えてくるかも知れない。

直近の大阪港湾局の資料を見ると、貿易相手先は中国・韓国・台湾が圧倒している。輸出品目では半導体・コンデンサー・電気回路が上位を占め、輸入大宗品目には衣類・食品・玩具が並ぶ。

昨年12月7日の国務院通達により、中国のゼロコロナ政策は大転換して注目を集めたが、その二か月前の10月7日に米国が発した対中国半導体規制も「大転換」と言うべき実に厳しい内容であった。

ナノメーター単位の微細世界のコロナウィルスと最先端半導体、人間と経済の命取りになりかねない二つのアイテムの取り扱いには注視すべきであり、米国と中国の半導体競争の狭間で実に難しい立ち位置にある日本・韓国・台湾には慎重な対応が求められる。 

楽観的になりにくい問題を反芻しながら、中之島から京阪電車で京都三条へ移動した。地下鉄東山から岡崎公園に向かう白河沿いの道筋に、団子屋と蕎麦屋が並んでいる。運よく白河の流れに面した席で鰊蕎麦を注文できた。この部屋には森一鳳の『藻刈舟』の一幅が似合いそうだと思った。高橋氏が近くにある「並河靖之七宝記念館」の話をされ、赤坂離宮に納められた濤川惣助の七宝焼が渡辺省亭の日本画を原画とする超絶技巧の作品であり、東西のナミカワの七宝焼技術は世界最高の水準にあった・・・話の流れも留まらなかった。

(井上邦久 2023年2月)