【多余的話】『变脸(変面)』

「来年も今頃お出でと春の医者」。信頼する眼科医はその年も同じ言葉を口にした。長年にわたり、毎年入社式の頃に年一度の定期検査を繰り返していた。しかし2011年はいつもの言葉を聞き流すことができなかった。「来年」が必ず来ると楽観的に思えない程、傷ましい東北・北関東の震災被害だった。その地震発生の瞬間はテレビ会議で上海から東京の激しい立揺れと緩やかな大阪の横揺れを同時に見た。直後に内蒙古オルドスに出張し、CCTVでNHKの津波中継を夜通し見続けたことは以前に綴った。

2月末に、『「生きる」・大川小学校 津波裁判を闘った人たち』を観た。大阪十三の第七芸術劇場・シアターセブン(www.nanagei.com )で幸運にも監督挨拶の日であった。「石巻市立大川小学校で子供を亡くした人たちの膨大な画像記録を繋ぎ合せただけです。劇場上映は難しいと言われていたので今日は嬉しいです」と発言は控えめだった。友人から『生きる』という題名を聞いて、黒澤明監督+志村喬主演の名作、特にブランコで揺れるシーンを連想していた。しかし本作は北上川を逆流する津波が迫る中、児童が校庭で「待機」させられ、挙句に不適切な場所に導かれて亡くなった事件を遺族たちと二人の弁護士が10年に渡り、粘り強く事実を積み重ねて追及した記録であった。児童らも『生きる』ことが出来たのではないかと問う行動を通じて、遺族が悲惨な運命の中で『生きる』力が繋がっていくことを知った。

華人研(www.kajinken.jp )3月例会が奇しくも3.11に重なった。
昨年3月に長い中断を経た再開第一回目の講演を、昆曲研究家の友人に引き受けてもらい例会を決行できた。その後も感染対策を続けながら恐る恐る毎月第2土曜日に例会を継続してきた。   

一年後の3月の例会は、四川省を中心に伝わる伝統芸能の「变脸(変面)」の実技と講演を企画した。例月は感染対策も考慮し、20~30人の定員を守り、ほぼ固定した参加者で座学を中心としてきた。そのオキテとシキタリを踏み外した小さな変革であった。

昨年秋に届いた在京ジャーナリストからの紹介を信頼根拠として、素朴な「ヨミとカン」を頼りに準備作業に取り掛かった。窓口の一社アジア芸術文化促進会との交信を通じて、王文強代表と山本晶共同代表の活動理念や実績を初歩的に把握していった。

まずは東京からの招請費用の予算化、安全で広めの会場手配、参加者の動員予測、少人数のメンバーでの運営、効果的な情報宣伝活動など想定される検討テーマに取り組んでいった。こんな時には祖母の九州弁の口癖「馬には乗っちみよ、人には添うちみよ」を思い出し、「できない理由を挙げればキリがない、できる工夫をしてみよう」と標準語訳して、ドン・キホーテ的に動く流儀なので、周りに迷惑をかけてしまう。それでもロシナンテ号は一歩ずつ歩みを進めた。

デザイナーが本業の幹事とその弟子が早々に作ったチラシ二種類が華人研の対外開放政策の第一歩となった。印刷時には黒インクをたっぷり消費するインパクトの強い案内状を公開したところ、年初早々から参加申込が始まった。会場予約の抽選会で、当日午前、午後の枠が使えないことが判明したが、途方にくれることなく東京に事情を伝え、夜間の登壇をお願いしたところ快諾して頂き、冷や汗をかいただけで済んだ(当然、宿泊代は加算)。

聴覚障がい者から手話通訳者手配の要請が届いた。大阪ろうあ会館に問い合わせたところ、諸手続きを丁寧に教えてくれた。登壇者には当日配付資料の先行作成を依頼した。情報保障という言葉や法令を学ぶきっかけになった(当然、手話通訳者の派遣費用は加算)。

開催直前になり登壇者経由で領事館員三名の参加意向が届いたが「登壇者知人としての対応、参加料は割引しない、自由席」というこれまで通りの普通の対応をすることを伝えた。

3.11.が近づくとメディアから地震関連の発信が増え、「梅田津波」「半割れ」などという言葉が巷に溢れた。会場はまさに梅田の築50年の高層ビルの5階で、下見を重ねる中で「異常時にはアナウンスに従って下さい」という説明だけでは物足らず、非常口の案内表示も乏しく感じたので、開催前に登壇者・幹事・助っ人スタッフが揃って、非常口への導線確認を行った。また自ら階段を歩くことで5階までの上り下りの負荷を実感した。そして冒頭の主催者挨拶でスタッフの紹介とともに参加者に安全第一の方針を伝えた。

楷書風の挨拶原稿について内輪からアドリブも加えてはどうかと助言もあり、その伏線も準備していたが、手話通訳者に渡した原稿をみだりに崩すと迷惑になることに気付き、草書風は控えた。お二人の通訳者の奮闘もあり、「变脸(変面)」の実技の魅力と伝統芸術の俗化を避けつつも、その変革を目指す王文強さん・山本晶さん夫妻の熱弁のお陰で華人研初の新企画は順調に進行した。

挨拶で「春宵一刻値千金」になりますようにと伝えたが、果たして「百金」だったか「萬金」だったか、参加者の声に耳を傾けたい。

作者の蘇東坡を思い出し、閉会後に急に空腹感が襲ってきた。

(井上邦久 2023年3月)