【家庭軼事】~ファミリーヒストリー~⑪

十一.父のこと (その4)

中国を訪れた西側諸国の要人の中で、最も印象深かったのはオーストラリアの首相夫妻である。

かつて水泳自由形の世界金メダリストだった首相夫人は、多忙な外交スケジュールの時間を割いて、朝陽体育学校の工人体育館プールに出向き、そこで練習をしている少年少女たちと交流を行った。運よくそのころ私も水泳訓練班の一員であった。

総理夫人は通訳を介して熱心に私たちの質問に答えてくれ、また自ら手本を示し、私たちの練習の良くないところを直してくれた。

そして最後に、総理夫人はみなの熱烈な要望に応え、コーチと一緒に選んだ日頃の練習の成績が良い男女各5名と10×50mの自由形リレーの模範試合を特別に行うことになった。つまり、総理夫人はたった1人で10人の子供たちに挑むのだ。

このような試合に出るのは初めてのことで、とてもわくわくした。第6泳者の私はありったけの力を振り絞っても1mの差も縮めることができず、最後の1人が飛び込んだ時には、60歳前後の総理夫人は私たちを50mも振り切ってすでに水の中で最終泳者の到着を待っていた。

私たちの惨敗で、この新機軸を開いた「訓練」は幕を閉じた。

政治が何事にも先行したあの時代、安全と秘密保持の必要から、接待担当や参加したすべての関係者はみな外事紀律を厳格に守らねばならなかった。

私の父はほかにも全国総工会と日本の労働者との交流活動や座談会にも参加したことがある。また、アメリカ人が撮影したテレビのドキュメンタリー番組『中国の昨日、今日そして明日』や『紫禁城の内外』の仕事も担当した。

もしあの頃の政治環境が今のように自由であったなら、と私は考えてみる。番組の制作や撮影スタッフが、彼らとともに働いている者の中にかつての紫禁城の御膳房料理番の子孫がいるということを知り、そんな偶然が撮影のこぼれ話となって、ドキュメンタリーをより魅力的なものにできたに違いない、と。

一年余りの後、テレビ局は本物の中継車を輸入した。テレビ局側は私の父をテレビ局に異動させて中継車専門の運転手にしたい意向であったが、公共交通機関は父を放そうとせず、その話は立ち消えとなった。

以上が、私の父が平凡な職場で成し遂げた平凡な仕事とその成果である。

十二.母のこと(その1) へつづく