八.父のこと (その1)
父のことを語るとなると、それはもうたくさんの物語がある。私の父はかつて北京市公共交通システムの長年にわたる有名人であった。
13歳で学校を中退せざるを得なくなった父は、三番目の叔父の推薦で、天津のとある自動車修理工場の見習いとして生計を立てることになったのだが、まずは社長の家での使用人としてスタートしなければならなかった。使用人は住むところと食事は提供されるが給金はもらえず、3年経って初めて自動車修理に関係する仕事をやらせてもらえるという。生きていくためである。他人に身を寄せるにはこれも仕方のないことだった。
なんとか3年を耐え抜き、ついに父の自動車修理の修業が始まった。
自動車への強い興味から、昼間の仕事中は親方の操作方法や動作のコツを細かく観察し、わからないところがあればすぐに親方に教えを請うた。仕事が終わると、夜の自由時間を使って部品の分解や組立を繰り返し練習し、研究した。
仕事を通じて、よく見てよく聞いてよく手を動かすという良い習慣が身につき、親方の厳しい指導や自身の素質もあり、父の自動車修理の技術は瞬く間に上がっていった。修業期間がまだ明けていないにもかかわらず、たった一人で自動車の修理をできるようになっていたため、社長は父に特別に自動車の運転を習わせ、運転免許証を取らせてくれた。
人生はいつだって思い通りにはいかないものだ。
ある時、バッテリーを交換していた同僚がうっかりと手を滑らせ、数十キロもあるバッテリーが父の右手の小指を押しつぶした。父は小指の第一関節を永遠に失うことになった。
北京・天津地区解放戦争が終わり、父は身に着けた技術とともに、10年ぶりに北京の母親のもとに戻った。そして公共バスの運転手になり、母と結婚した。
両親の結婚は多くの人たちとは違い、ちょっと変わっていた。
伯父が仲人となり、伯父は自分の実の弟を、妻の妹、つまり義妹に紹介したのである。これにより兄弟は、また「相婿」に、母方の伯母と母は、姉妹で「相嫁」ともなり、親類同士の結婚でさらに親戚関係が深まって、「うまい汁を他人には吸わせない」ということか、と話題になったようだ。
人は嬉しいことがあると元気が出るもので、家庭を持ってからの父の仕事ぶりには、さらに力が入った。
毎朝3時過ぎには起床し、職場にはいつも一番乗りだった。
その頃の北京の公共バスの燃料は、ガソリンでもディーゼルオイルでもなく、車体の後ろに大きな窯があって、石炭の燃焼によって発生するガスをエンジンの燃料源としていた。薪割り、点火、給炭、給水とあれこれ一通りすませるのに小一時間かかり、5時の始発バスの準備がやっと完了するのであった。
当時の公共バスは、運行の途中でのエンコしてしまうことは日常茶飯事であり、ほかの運転手は故障したら路上で救援を待つしかなかったが、父は天津での見習い時代に修業をつんだ筋金入りの技術で、自分で故障を直せた。
50年代中期、北京の全公共交通システムが運転技術コンテストと修理技術のコンテストを別々に開催したことがありそれぞれ100名以上が参加したが、一人で両方のコンテストに参加したのは父だけで、しかもどちらも優勝した。
それからというもの、北京市の公共交通システムでは父の経験を広く普及させ、すべての運転手に簡単な故障の修理を学ばせるようになり、こうして修理を待っていた時間が節約され、修理のコストも引き下げられた。
この年、父は中国共産党に入党し、「先進従事者」に選出された。さらには北京市の数百人いる公共交通運転手の中で有数の、しかも一番若い一級運転手に選ばれ、「苦労をものともせず、進んで仕事をするだけでなく、卓越した技術によってこのような栄誉を勝ち得た」と評価された。
当時の大多数の人の月給はわずか3、40元であり、たとえ優秀な大卒者の収入でさえも50数元前後であったが、父は25歳にならずして、すでに100元を超す収入があった。これは本当に目を見張るようなことである。
我が家には喜びが天から降ってくるように、良いことが続いた。私はそのような家庭の雰囲気の中で生まれたのである。
その頃から、北京市公共交通システムが輸入した、または国産の新型公共バスはいずれも父が一番に試運転するようになっていた。
父が担当したことのある路線は、4番路線、50番路線、9番路線だ。
50年代の公共バス4番路線については少々説明を要する。
今の北京の住民は誰でも二環路から六環路の方向と位置を知っているだろうが、ほとんどの人はかつての一環路がどこにあったかは知らない。
当時の人々は、4番路線バスというときは必ず「環状」の文字を付けたものだ。この「環状」とはつまり一環路のことで、当時は「一環路」という言い方がなかっただけのことである。では、それはどこのことを指すのか?
初期の一環路は、東単⇒西単⇒西四⇒東四⇒東単。その後、西四から北へ、平安里⇒地安門⇒東四⇒東単と延長された。
本件に関し、私には皆さんにお知らせする適任者で、その資格がある。なぜなら、私の父は当時、チェコから輸入した真新しい「カローサ」の4番路線公共バスの運転手の一人であったからである。
九.父のこと(その2) につづく