【家庭軼事】~ファミリーヒストリー~⑦

七.伯父のこと

 

1949年10月、新中国が成立した。

その頃の人の教育水準は平均して小学1、2年程度であり、初級中学を卒業した伯父は、おのずと当時の「知識分子」であった。

その上、伯父の書道の腕前は相当なもので、その顔真卿流の文字は力強い筆致で、整っていた。中でも得意だったのは「蠅頭の小楷」で、この抜きん出た能力が時の最高検察署(のちの検察院)副検察長である李六如に認められ、その配下として秘書に任命された。そしてまさにそのお陰で、弁公庁で働いていた私の外祖父と知り合い、その後、長女の婿として迎えられることになったのである。

1950年、朝鮮戦争が勃発すると、熱血青年だった伯父は軍隊に志願し「抗米援朝・国家保衛」の戦いに身を投じた。配属先は瀋陽軍区空軍の安東(現在の丹東)付近の飛行場で、後方支援主計長に任じられた。

北京出身の上、学問のある伯父してみれば、田舎者の中隊長を含め、あらゆるものが眼中になかった。伯父はしばしば反抗的な態度をとり、皮肉を言ってこき下ろしたりした。

伯父のことを心底憎らしく思っていた中隊長は、伯父に嫌がらせをして困らせたり、きつく当たったりしたが、そんなちまちまとした悪だくみでは、才能がありながら不遇をかこっている血気盛んな若者を抑え込むことはできなかった。

1953年の初め、黙って引き下がってはいられない中隊長は、ついに「三反五反」運動の機会を利用して、邪魔者を取り除いた。

政治運動では毎回必ず濡れ衣を着せられ、苦しめられた人がいた。

悪運に見舞われていた伯父も、むろんのことその運命から逃れることはできなかった。

さらに、伯父が任されていた帳簿自体にも瑕疵が見つかった。当時のお金で150万元(現在の150元)の特別予算が誤って他の費目に使われていたのだ。

このことで言いがかりをつけられた伯父は軍から除籍された上に、山西省大同市の青磁窯炭鉱へ労働改造に送られた。かつての溌溂とした青年が、政治運動とその指導者の個人的な私憤のはけ口の犠牲となり、体面を失わされることは何と耐え難いことだったろう。

幸い、文革が終わった後、誤りを糾す政策が実行され、名誉回復されて軍籍に戻ることができた。

上級大佐待遇での退役となり、しかるべき経済補償も貰えることになった。それでも、同期入隊の戦友の階級が少将や中将になっていたことを思えば、なんと苦い教訓であったことか。

身のほど知らずの若気の至りで他人をこきおろしたりしたことは、一時は気分が良かったかもしれないが、生涯恥辱に耐えることになってしまったのだ。

経験した者だけが持つ痛みと永遠に忘れられない記憶である。

八.父のこと(その1) につづく