六.外祖母のこと
外祖母の足はとても品のある正真正銘の纏足だった。
12、3センチのほどの「三寸金蓮」、纏足による奇形の両足は、足の指が生えていないように見えた。
「おじいさんが私を結婚相手に選んだのは、この足も決めての一つだったんだよ」というのが外祖母の自慢だった。
纏足の女性はお店で自分の足に合う靴を買うのも大変で、ほとんどの纏足のおばあさんたちは布靴を作ることができた。
外祖母は手先がとても器用で、服を縫っても布靴を作っても、なんでも上手だった。
布靴を作るのはとても手間がかかる。
まずは清潔な古い布切れをかき集め、それから小麦粉で洗面器いっぱいのでん粉糊を作る。そして平らな板に刷毛で糊を塗った上に布切れを一枚一枚ぴったりとくっつけて貼り合わせていき、これを4~5層になるまで繰り返してから風通しの良い日陰で自然乾燥させる。これは「打袼褙」といって靴底の材料を作る工程である。
毎年、春と秋には多くの家庭でこの作業を行うため、横丁から路地裏、長屋から雑居住宅に至るまで、「靴底の材料」を乾燥させる大小さまざまの板が立てかけられているのがこの季節の一時期の風景となっていた。
子供たちは大小の板を、かくれんぼの隠れ場所、ピンポンの台などの遊び道具として楽しんだし、大人たちはそれぞれ忙しく手を動かしながらも近所の人たちとのおしゃべりに余念がなかった。
「靴底の材料」が完全に乾いたら、板から外して作りたい布靴の大きさの型紙に合わせて切り、左右それぞれ4~5層に重ねていく。靴底の硬さ柔らかさや厚みは、ここを何層にするかで決まる。
布靴づくりで最も時間と手間がかかるのが、細い麻布で靴底を刺し子縫いにしていくことだ。
これはその布靴を丈夫で実用的に仕上げる肝心かなめの作業で、針目が均等で細かければ、その人は手先が器用だとわかるのである。
外祖母が刺す靴底の針目は米粒ほどで、きっちりと縫い目がきれいに並び、一晩で一足分の靴底を刺し終えるほど早かった。薄暗がりの灯りの下で、細い麻糸が目にもとまらぬ速さでシュッシュッと靴底を通り抜ける音を聞きながら、家族は眠りについたものである。
千枚通し、針、指ぬき、靴底を挟む板。こういった道具は外祖母の手の中でその力を発揮した。
足裏に触れる側の靴底のでこぼこをなくすため、刺し子縫いの終わった靴底の上に綿を敷いてその上から新しい布を被せてから、夏用や綿の入った冬用の靴底以外の部分と靴底を縫い合わせて靴に仕上げる。
靴底の材料を作るところから私たちが新しい靴を履くまでに、外祖母は3~5日しかかからなかったが、外祖母を一緒に靴を作り始めた人は、その頃はまだ靴底すら仕上がっていなかった。
私の外祖母はそんなにもてきぱきと仕事をこなし、何でもできる人だったのである。
外祖母はとても穏やか性格だった。
私たち外孫が4、5人集まれば、ふざけ合ったり、まくらやタオルを投げ合ったり、時には外祖母が作ったばかりの新しい布靴を武器にしたり、部屋の中は疲れを知らない腕白どもにめちゃくちゃにされたが、外祖母は一度も手を挙げることはなかった。
習字の練習をしていて私たちが外祖父にお仕置きをされる時、外祖母はいつも私たちの前に立ちはだかって助け舟を出してくれた。どうしても止めきれない時でも、きつく叱らないで、と外祖父に頼んでくれた。
私の家と外祖母の家は同じ工場の居住区域にあり、300メートルほどしか離れていなかった。
1964年、私が小学一年生になったばかりの晩秋の雨の日のことだった。
外祖母は私たち兄弟やいとこ達の傘を学校まで届けに来てくれたことがあった。若者ですら歩くのに難儀するぬかるんだ道を、年を取った纏足のおばあさんが、である。外祖母は孫たちが雨に濡れて風邪をひいてはいけないと、どろどろの道をよちよちと苦労しながら歩いてきたのだ。あの時から55年の月日が流れた。
外祖母は1970年の立春の日(2月4日)に病気でこの世を去ったが、外祖母のあの優しい慈愛に満ちた笑顔は、今も私たちの心の中に残っている。
外祖父の話をもう少しだけ。
大混乱を極めたあの10年の内乱は、1966年の夏にその幕が切って落とされた。
紅衛兵たちのヒステリックな叫び声によって、公安局、検察局、法院といった国家機関は徹底的に叩きのめされ、完全にマヒしてしまった。けたたましいスローガンとともに、外祖父は退職を迫られた。
家でぶらぶらしていた外祖父は、ちょくちょく居民委員会から標語や通知、壁新聞を書いてくれと頼まれた。善悪がひっくり返っていたあの時代は、誰しもがおとなしく組織に従うよりほかなかった。でなければ、いろんなわけのわからないレッテルを貼られてしまうからだ。外祖父は仕方なく居民委員会のすべての書き物の任務を請け負った。
外祖父が書いた新しい標語やスローガン、壁新聞が張り出されるたび、私はいつもその前に立って、人々がその文字がどんなに素晴らしいか称賛する誉め言葉を聞くのが好きだった。特に同じクラスや同じ学年の子が私の外祖父が書いたものだと知って感心するのを聞くと本当にうれしかった。もしその場に女子が居ようものならなおさら天にも昇る思いで、虚栄心は満たされた。
外祖父が最高人民検察院で清書していた文書の文字がどんなに上手くても、私や一般の人たちは自分の目で確認することはできなかったが、居民委員会の外の壁に張り出された文字は、何日もの間、私を得意がらせたものだった。
北京の靴の老舗「内聯昇」のショーウインドウ 靴底の刺し子に使う麻糸などが見える(訳者撮影)
七.伯父のこと につづく