【家庭軼事】~ファミリーヒストリー~③

三.大叔父のこと (その1)

 つぎは祖母の三人の弟、つまり私の三人の大叔父のことである。

私の印象に残っているのは一番上と三番目の大叔父だ。二番目の大叔父は口数が少なく付き合いがほとんどなかったのに加え、遠くに住んでいたこともあって、会う機会も限られていたことからあまり印象にない。

一番上の大叔父は、労苦をものともしない、慈悲深く善良な人だ。伝統芸術である京劇の「四大名女形」の一人、荀慧生専属の二胡奏者であった。

二胡を習い始めの若かりし頃は、随分と叱られもし、つらい目にもあったらしい。なぜかというと、自分で弾き方を研究するもののやり方が悪いのか、祖母の言い方では「鶏が殺される時の声よりもひどい音」を出していたのだそうだ。隣近所からは苦情が殺到し、家の者は怒鳴られたり殴られたりしたことも度々あったようだ。

耳障りな音を小さくし、近隣への影響を減らすために、上の大叔父は二胡の胴(琴筒)の中に綿を詰めて音が響かないようにし、時には屋根の上や木の上で練習をした。これは練習を休まなくてよいし、隣近所の迷惑にもならず、一挙両得の良い方法であった。

基本的な技術を練習するために、真夏に蚊に刺されることや、真冬にかじかんだ両手がぱっくり割れることにも耐え、技術を高めるためにちょくちょく名手を訪ねては切磋琢磨した。正確な指使いを練習するために、冬には「奥の手」で自分を痛めつけた。冷たい水にわざと手を浸すのだ

ニンジンのように真っ赤になり、硬直して自由に曲げることのできない両手の指は、あかぎれ、血が滲んだ。凍傷は上の大叔父の歩んだ芸の道の険しさを物語っていた。

当時の人は、「苦中の苦を味わって、はじめて人の上に立てる」、「名声を得たければ、陰で苦労せねばならない」ということを信じ、守っていた。今の世の中、自分の子供が芸を学ぶ中で自身の体を痛めつけるのを許せる親が何人いるだろうか?

演奏技術の高みを追及し、そこに至るため、上の大叔父は一日一日、一年一年と研鑽を積み、超人的な努力を続け、ついに京劇界の多くの二胡奏者の中で名を挙げた。光栄にも「四大名女形」の一人、荀慧生の「御用奏者」となったのである。

出世をしてからというもの、上の大叔父の二胡の練習に苦情を言っていた隣近所の態度はコロッと変わった。新年や節句のたびにチケットを回してほしいと頼んでくるようになったのだ。

私と祖母が上の大叔父の恩恵を受けて、タダ見できたことは言うまでもない。

祖母は新しい演目が掛かると、人より先に見るのを喜びとしていた。私は5、6歳の頃から祖母に連れられて行ったものだ。その芝居が理解できなくても、興味がなくても、それでも「才子佳人」役の衣装や豪傑役の隈取はやはり深く印象に残っている。

上の大叔父は、得意げな、おどけた笑みを浮かべ、当時の興行の笑い話をしてくれた。

専属の楽団に入った当初は、たびたび荀慧生師匠の嫌がらせを受けたのだそうだ。出演料の配分が公平でないことから不満が出て、楽団の指揮とる太鼓奏者を含め、楽団の全員で相談して公演の時に「造反」することになった。わざと音を高く弾いたり、太鼓のリズムを崩したりして、荀慧生師匠の調子を狂わせ、師匠を困らせたのだ。事の真相を知らない観客からは野次が飛んだ。こんなことが何度も続けば興行収入にも大きな影響が出る。

荀慧生師匠本人もこの異常な現象にはきっと裏があると意識し始めた。そして自分自身に問題があるということがわかると、荀慧生師匠は腰を低くして楽団の全員と話し合いを行った。けちん坊の荀慧生師匠がしぶしぶ元の配分方法を改め、問題が解決された後は、すべての楽団員が情熱をもって公演を務め、観客からの好評を博した。もちろん興行収入もうなぎのぼりで、めでたしめでたしとなったのだそうだ。

上の大叔父の四人の子供は誰も二胡奏者にはならなかった。

その無念さを埋めるためか、自分の弟子に目をかけ、教え諭すさまを私はこの目で見てきた。

文革前、京劇界では名だたる役者や演奏者を師匠とすることが流行し、上の大叔父も例外ではなく、多くの弟子を抱えていた。

稽古場での上の大叔父は、弟子の演奏技術にとても口うるさく、非常に厳格だった。弟子に正確な指運びを学ばせるため、その場で矯正し、手を取り一小節ずつ細かく技術のコツを繰り返し教え、実演もして見せた。そして稽古が終われば、弟子を家に連れて帰り食事をとらせ、泊まらせて個別指導をすることさえあった。

夏には必死に練習する弟子に団扇で涼風を送り、冬には火鉢を焚いて弟子を暖めた。上の大叔父が苦労し自分を痛めつけてまで練習していた当時のことを思えば、この時の上の大叔父は、弟子のことを何くれとなく心配し、優しく接していたものだ。

それなのに、天と地ほどの差のあるこの行為が、文革の最中、我慢ならない罪状であるとされた。

上の大叔父の弟子の一人がすさまじい権力を振るう「造反派」となって、恩師を目の敵とし、ちょっとした恩恵を与えて革命青年を籠絡した「牛鬼蛇神」だ、と上の大叔父を侮辱したのだ。恩をあだで返すとは正にこのことである!

家庭生活において、上の大叔父は、家族全員にもてる限りの愛情を注いだ。

毎日節約して貯めた給料や米、小麦粉を、子供たちが少しでも良い生活が送れるようにと地方で仕事をしている四人の子供たちに郵送していた。親は子供のことを思うものである。

上の大叔父夫婦は、私より一歳年上の先天性の障害を持った孫娘の面倒を見ていた。

昼間は弟子に稽古をつけたり個別指導したりするほかに、買い物やその他の家事をするのはまだしも、孫娘の下の世話までしていた。そして夜には劇場に行き、リハーサル、公演をしなければならない。

このような慌ただしい生活は33年も続いた。

孫娘が生まれた時、医者は持って5年の命だろうと断言し、民生部門傘下の福利院へ入院させることを提案した。しかし、治療をあきらめなかった上の大叔父夫婦は、祖母やそのほかの親戚の手伝いも受けて、真の愛情による奇跡を生み出したのである!

障害を持った私の従姉が亡くなった一年余り後、上の大叔父夫婦は相次いでこの世を去った。

「あの二人は本当に疲れ切ってしまったんだね」、「芸の道は究めたけれど、生活面では苦しかったろうね」というのが、京劇の同僚や友人たちの上の大叔父に対する感慨である。

 

※硬直した指で練習を積んでおくと、元に戻った時に、より滑らかに指が動くようになるということらしい。

四.大叔父のこと (その2)につづく