『洛北余聞』

予報通りの酷暑、予想通りの感染拡大のなか、千本通りを洛北へ、いつもより早めのバスに乗った。講座「疫病に向きあう」の前に、京都大学のL教授から紹介された修士課程学生と面談をするためだった。吉田キャンパスから自転車で登ってきたZ君は江蘇省出身、上海の復旦大学を経て、春に来日したばかりとは思えない癖のない日本語を身につけていた。

L教授から「友好貿易」という言葉は知っていても、その実態や日中貿易での位置づけが分からないというゼミ生へ実体験を語って欲しいという要請だった。事前に鍵になる年表と用語を伝えておき、友好商社のC社の社史を持参した。1945年、1949年、1952年、1961年、1972年、1978年、1992年、2001年、それぞれの年の意味をお浚いし、日本が独立して貿易自主権を回復した1952年から中国との国交を回復するまでの20年間を中心に話した。

ベトナム戦争や日米貿易戦争の時代。自民党総裁選が国際政治に影響していた頃。自民党非主流派や野党によって継続されていた日中国交回復運動は急展開し、周恩来首相は田中角栄首相・大平正芳外相と握手した。にわかに日中友好ブームが起こり、その後多くの友好姉妹都市が生まれた。日米貿易の陰りを危惧し、中国市場の将来性に賭けた日本総資本の方向修正だった。それまで東西貿易、配慮貿易、友好貿易、LT貿易、覚書貿易、周三原則などの試みと制約の中で、日中間の政治的・経済的・資源的な「有無相通」のバランスを取ってきた経緯を大まかに振り返りながら語った。

天産品(松節油・桐油・滑石・生漆・甘栗など)や鉱産物を一次加工した無機化学品を中心とした輸入と肥料・合成繊維原料などの輸出を友好商社が担ったことを具体的に話した。春秋の広州交易会と北京二里溝の貿易総公司の二箇所だけで商談を行う形態の中で、大メーカーや有力ユーザーが中小の友好商社を尊重した理由は、友好という旗幟を鮮明にして得た中国政府のお墨付きと人脈と語学力にあることについて、実例と私見を交えて喋った。Z君にはとても高い理解力があり、大手商社系のダミー商社が存在したことまでも知っていた。

友好貿易という政治的で制約の多い貿易形態は、1972年9月29日北京での日中共同声明により変異していった。翌日の朝刊を飾った大手企業による国交回復の祝賀広告を眺めながら、潮目の急変を実感したことを思い出す。

その後も友好商社は善戦したが、取引拡大に必要な資本力の限界と客の方針変化により徐々に淘汰され、「中国一辺倒」だった友好商社では苦戦が続いた。中国側が常套語として発した「没有合同,但是有保留友情」(契約書はなくても友情は残る)というホロ苦い言葉を、Z君は中国語の正確なニュアンスも含めて分かってくれた。一方で、中国政府の直下で貿易を独占していた貿易総公司にも変化の波は押し寄せ、地方分権・「民進国退」により、権益は減退していった。

化工総公司→化工山東省分公司→化工青島市分公司→紅星化工廠→紅星集団と短期間に貿易窓口が変化した青島紅星製の炭酸バリウムの事例が分かりやすい。

Z君は「賞味期限切れ」という日本語で友好貿易の終焉を適確に理解していた。

それから50年、国交回復後に始まった対中国ODA開発途上地域の開発を主目的とする政府及び政府関係機関による国際協力活動)は本年3月で予算や新規協力案件もなくなったという。

午後は佛教大学のキャンパス内を移動して、天然痘から始まる感染症についての歴史と考察の続きを香西教授から学んだ。

1849年長崎オランダ商館医のモーニケと佐賀藩侍医の楢林宗建の連携でバタヴィアからの牛痘苗が一人の児童に活着して情況は大変化。1849年から1850年の短期間に桑田立斎らが十指に余る種痘奨励書・手引書を出版している・・・と2021年10月『牛の話』で綴った。

この日の講義は、1857年長崎に来航したオランダ軍医ポンペによる医学伝習と「長崎養生所」(長崎医科大学、長崎大学の礎)開設、「養生」の意味の変遷についてであった。途中、前回講義のあとに伺った「蝦夷地の集団種痘に人体実験の要素はありませんか?」という素朴な質問への明解な回答の時間もあった。

ポンペ来航と同じ1857年の5月、幕府の公募で選ばれた桑田立齋一行が江戸を出立、白河・仙台・盛岡・田名部で牛痘生苗を種え継ぎ、箱館を拠点に蝦夷地で種痘をしたが、人体実験と言えるような高度な比較検証の能力も記録もないとの説明であった。手交して頂いた教授の論文「アイヌはなぜ『山に逃げた』か」『思想』1017号(2009年1月号)の抜刷を拝読し考察の奥行きを直感した。

バランスの取れた資料分析と鋭い考察が続く論文なので咀嚼が容易ではない。蝦夷地の産業構造の変化がベースにあり、ロシアの南下行動とアイヌ同化圧力に幕府が敏感に反応した複合要因が幕命全種痘に絡むことが何とか読み取れた。

ある意味で魅惑的な絵の背後に、蝦夷地種痘にまつわる奥行きがあることを色々と想像した。実に刺激的で魅力的な夏の課題として読み返している。

井上邦久 2022年8月)