『往事如煙:テレビとの出会い』

とても自慢になりませんが、今年は満60歳と還暦の歳です。この歳になったせいか、過去の記憶、特に幼少期のことは時々映画のように頭の中に流れています。その内、特にテレビとの出会い、初めて見たテレビの記憶はいまでも鮮明に再現できます。その日にちもなぜかはっきり覚えており、1969年10月1日でした。

そう、建国20周年の国慶節の日です。しかも、1969年は文革の真只中で、当時住んでいた家(親の社宅)は天安門広場の近くで、広場の大音響(毛沢東による紅衛兵の接見)がよく聞こえていた記憶があります。

その日ですが、まだ7歳の私は母親に連れられて職場同僚の家に遊びに行きました。国慶節は休みの日で、当時は公園か、同僚や友達の家に遊びに行くか、というしかない休日の過ごし方でした。その同僚はシンガポールからの帰国華僑で、家に白黒のテレビが1台置いてありました。しかも、ちょうど国慶節の祝典が天安門広場で行われている生中継の時でした。

当時の私は、テレビ(電視機)という単語も概念も全く持っていませんでした。初めて見たテレビ、しかも実況中継で、林彪副主席(当時)の演説(湖北訛りの肉声はいまも忘れられない)、熱狂の歓呼、広場に埋め尽くした人々と赤い旗(白黒の映像ですが、脳裏には赤い反応でした)などなど、まだ子供の自分はよく飲み込めないものの、そのビジュアルと音響は50年以上たった今でも、残像と余韻としてしっかり残っています。

先日、たまたまネットを見たら、当時の映像は以下のサイトから確認することができます。林彪の演説も全部あります。映像の22分30秒前後に、林彪は演説の最後に力を込めて「~万歳!万歳!万々歳!」を叫んだシーンは、まさに私のテレビとの出会いであり、生涯消え去ることはないものになりました。

 

・1969年10月1日、20周年国慶節(下記写真:映像からのスクリーンショット)

https://www.youtube.com/watch?v=NjR_4R5B9j0

 

次はカラーテレビとの出会いです。期日ははっきり覚えていませんが、1973年前後の記憶です。こちらは親の職場でしたが、日本の企業からプレゼントされたものだと聞いています。周知の通り、日中国交回復はいまから50年前の1972年だったのですが、それ以降、日本の企業関係者から訪問を受けたり、交流したりしたという話しは、時々親から聞きました。

当時は小学生の頃、親の職場にたまたま遊びに行った時ですが、日本製のカラーテレビを見る機会がありました。普段は棚の中にしまわれ、鍵をかけて厳重保管されるお宝物のような存在ですが、夕方になると、テレビ放送の開始(※)と同時に、棚から丁寧に取り出して電源をスイッチオンされます。どんな内容の番組だったのかは忘れましたが、綺麗なカラー映像が強い印象でした。それまでは映画の体験しかなかったのですが、この小さな「マジックボックス」から映像を映し出されるのが不思議で仕方ありませんでした。 

※1970年代のテレビ放送(CCTVなど)は大体夕方19時から22時頃まで、ニュースと映画1本はほとんどで、ドラマや娯楽番組は一切なかった。

 

文革が終わった後、改革開放の初期(1980年代前半)はちょうど大学時代と重なった頃のことです。ご存じの方は多いのですが、中国の大学は全寮制(いまもそうですが)で、規模が大きい大学は、学生寮は何棟もあります。私が入った寮は大学の中に最も大きい建物で、数千人の学生が住んでいました。その建物には、テレビはたった1台しかありません。それも普段は棚にしまわれており、やはり専任の職員(学生指導員)が厳重管理していました。どんな時にテレビを見られるかというと、スポーツ中継という記憶でした。

いまでもはっきり覚えていますが、中国の女子バレーが初めて世界で優勝した実況中継(注:1981年11月、東京で行われた女子バレーのワールドカップ、写真)は、大学の寮で見ました。優に数百人を超える学生が1台のテレビに釘付けになり、得点した場面になると「ワァー!」という大歓声が巻き起こりました。

 

・1981年11月、中国女子バレーの初優勝(下記サイトは試合中継の映像)

https://www.youtube.com/watch?v=u1uCWofNzv4

 

ちなみに、最終試合は中国対日本でした。中国チームはそれまでの6戦を全勝し、最終戦は勝利すれば文句なしの完全優勝ですが、日本との死闘が2時間半を超え、3:2の辛勝(旧ルール)でした。中国はその頃、卓球やバドミントン(小球:小さなボールの球技)の世界チャンピオンになったことはありますが、バレーやサッカーといった大きなボール(大球)は世界で全く太刀打ちできなかったのです。従って、この女子バレーの初優勝で中国内に沸き起こった熱狂は計り知れないものでした。テレビ中継が終わると、皆の興奮はますます高まり、とうとう街に出て行進をしました。いま振り返ってみると、これは誰かに組織された訳ではなく、全く自発的な行進でした。終始「女排(女子バレー)勝利、振興中華!」を叫びながら、2、3時間行進しました。

余談ですが、当時立役者の一人、アタッカーの郎平選手は、後に中国女子代表の監督として、2016年リオデジャネイロオリンピックを参加し、金メダルを獲得しました。最終戦の対セルビアですが、これも2時間超の熱戦でした。この時は自分一人、家でテレビ観戦しました。学生時代と違って大歓声を発することなく、このまま不完全燃焼になると思った瞬間、最後の決定打で優勝が決まり、思わず「郎平、よくやった!」とソファーから飛び上がりました。テレビで見た郎平の姿は歳を取りましたが(自分も勿論)、青春時代に見たテレビ映像の記憶と重なり、胸が火傷したかのように熱くなりました。

 

いや、たかがテレビ、ということなのですが、その出会いから半世紀が経ったいまも、その衝撃は忘れることができません。いまの若い世代はあまりテレビを見ないようで、こんな昔話をするのはいささか自己陶酔の世界になってしまいます。繰り返しで恐縮ですが、これらは決して自慢話ではなく、初体験から受けた衝撃を少しでも共感が得られれば、自分にとってささやかな喜びです。どうぞご笑覧下さい。

 

雷海涛(2022年5月)