1990年代から2000年代初め、中国の高級眼鏡市場(400元以上)で約40%のトップシェアーであった「野尻」(NOJIRI)というブランドがありました(2003年8月7日福井新聞記事)。上海語で「ヤコー」と呼ばれ、漢字を説明する時には、いつもいささか品の無い例えで説明をしたものです。顔に架ける眼鏡のブランドに「尻」がついていたギャップ萌えが、一度聞いたら記憶に残るブランドとして品質への信頼感もあり、上海を中心に大変人気があったのです。現在では中国での日本発ブランド名には細心の注意を払うのが鉄則となっていますが、当時は深い思慮もなく、単に創業家の名前をとった「野尻眼鏡工業」からのネーミングは、幸いにも結果オーライでした。まだそんな呑気な時代だったと思います。
しかし、これには後日談があって、1996年に北京王府井に野尻眼鏡服務中心を開設したところ、北京市東城区工商局から「野尻」の看板を外すよう命令されたのでした。表向きは、天下の首都の目抜き通りに「野尻」の野卑な看板を出すこと罷りならぬということで、商都上海で許可されても、政治の中心北京では許可できないとのことでしたが、実際は実質直販店の北京進出に対して、国営系の代理店が反対してのことだったのでは?と後日業界通から聞くことになりました。困って福井県人ルートで在北京日本大使館にも相談したのですが、結局「野尻」の看板は上げることはできず、代わりにロゴマークのみの看板となりました。この一件は上海と北京の空気の違いを知るところとなりました。また、何故か日本のマスコミに知るところとなり、日刊タブロイド紙により「日中文化摩擦が起こした珍事件」としていささか大げさに報じられ、野尻の名前が日本国内でも思いがけず注目されたのでした。
さて、唐突に大昔のブランド名のエピソードを紹介しましたが、まことに残念ながら、今はもう正式には「野尻」ブランドの眼鏡はこの世に存在しません。日本の野尻眼鏡工業は2012年に自己破産し、中国の拠点も消滅してしまいました。同社は鯖江に集積する眼鏡産業と言うニッチで、結果的に1989年に最初の日中合弁企業を作った勇気あるパイオニアでした。結果的にはと言うのは、以前簡単に紹介しましたが、それ以前の1985年に北京での合弁話が契約合意(北京長谷川有限公司)まで行きながら、その後頓挫して「幻の合弁」となったからです。北京での合弁話は、その後1990年設立の北京佐々木眼鏡有限公司に引き継がれるのですが、日本本社の佐々木眼鏡自体は無理な中国投資が重荷となり、5年後の1995年に破綻してしまいました。そんな中での、1989年の野尻眼鏡工業の上海での合弁事業が、いままで中国人研修生の受け入れをしていた鯖江産地の中国直接投資のスタートとなり、その後シャルマン、サンリーブ、三谷商事等の進出が続くことになります。前年の1988年5月に合弁契約の調印をしています。この合弁のきっかけは、当時1986年まで2期鯖江市長を務め大の中国通であった山本治氏(大阪外大中国語科卒)が、上海科学技術大学(現上海大学)の顧問教授を務めており、北京ではうまく行かなかった合弁事業を上海市軽工業局と仲介したのです。北京で上手く行かなくても上海での再チャレンジでした。資本金216万ドル、中方3社50%でしたが、中方が上海市軽工業局系企業や錦江集団と言う超ビックネームであり、工場も上海市普陀区の市街地の国営上海眼鏡第一廠内で、最初からメッキ工場を有しているという、上海市政府の全面的なバックアップによるスタートでした。最初のご縁の合弁バートナーがビックネームで日方中方の「身の丈」が違ったことは、その後の中国でのオペレーションに良くも悪くも大きな影響を与えることになりますが、それは後々の話となります。
話は横道にそれますが、北京での合弁は当時の新聞報道から推測するに、日方自体が当初3社合弁の寄せ集め所帯であり、交渉途中に同床異夢で空中分解し、当時福井県眼鏡協会副会長であった長谷川眼鏡が単独での進出を引き継いだものの、結果的にはそれも「幻の合弁」となっています。相手は国営北京眼鏡廠で、北京市政府の副市長の肝いりで、中方はマジョリティー51%を要求していました。当時の日方企業は何れも現在は存在せず、当事者の話ではありませんが、多分に1995年当時中国との交流に積極的であった山本市長の2期目であり、政治的パーフォマンスに業界幹部が巻き込まれ最初から前のめりで無理があったのではないかと後々聞いています。当時の新聞記事(1985年4月28日福井新聞)には人民大会堂の合弁基本契約の席上で、北京動物園側から「珍獣」(原文のまま)を鯖江市に送りたいとの申し出を受けており、既に前年11月よりレッサーパンダ(小熊猫)を受け入れていた鯖江市西山動物園は次にどんな「珍獣」を期待していたのでしょうか?「小熊猫の次は大熊猫が鯖江にやって来る」との期待があったとか、「市長は眼鏡の技術とパンダを交換した」との批判的意見もあったとか、当時起きたドタバタを伝え聞いています。この北京での合弁がうまく行っていたら、今は日本一のレッサーパンダ(小熊猫)の飼育数を誇る西山動物園に大熊猫(ジャイアントパンダ)が来たのかもしれません。現在日本で一番ジャイアントパンダを飼育している和歌山県白浜に初めてパンダが来たのが1988年。子供たちに大人気の愛くるしいレッサーパンダを見て、約30年前に中国に関してそんな眼鏡とパンダにまつわるエピソードがあったなどと今はもう誰も知る由もありません。
閑話休題。当時従業員100名程度の中堅眼鏡メーカーであった野尻眼鏡工業が1989年果敢に上海進出を決断し、「野尻」ブランドで中国市場を開拓しました。年間約40万枚を販売し、最大5拠点(従業員1,000人規模)を擁し、中国で最初に本格的にチタン製眼鏡を製造した90年代の隆盛を経て、その後の望まない2回の工場移転を経て2012年の破綻までの23年間はまさに中国を運命共同体として波乱万丈・栄枯盛衰の道程でした。次回以降その中から様々なエビソードの抽出して、現在の中国ビジネスに繋がる「不易流行」を探っていきたいと思います。
最後になりましたが、野尻グループと私は1990年代に金融機関の上海駐在員となって以降不思議なご縁でのお付き合いが続きました。その中で特に、1999年~2001年までは同社の中国ビジネスを統括する立場として勤務した当時の記憶をたどり、改めて関係者からのヒアリング、新聞記事等の各種資料を整理したいと思います。そして、野尻グループが眼鏡産業の中国ビジネスに残した足跡を記録に残し、未来につなげることがお世話になった私の務めだと感じています。紙面が尽きました。残念ながら今回はこれにて終了とします。
【当時の野尻眼鏡ロゴマーク】
福井大学 大橋祐之 (2022年2月)