『小春おばさん』

10月後半からひと月近く穏やかな日和が続きました。小春日和。初冬の季語。中国語では陰暦10月を小春(xiao chun)と呼び、小春日和は小陽春(xiao yang chun)

勤め人になった年、井上陽水のLP『氷の世界』を買い、B面の「小春おばさん」を繰り返し聴いたことを思い出します。

感染が拡大した一年半前。基礎体力を維持し、免疫力を強化するのみと覚悟を決めた頃には夢の中でも、同じ井上陽水の「夕立」の歌詞~計画は全部中止だ~家に居て黙っているんだ、夏が終わるまで~のリフレインでした。

二度目の夏にも終熄せず、中国で躺平族(tang ping/寝そべり族)と呼ばれる若者のように黙って寝ていました。ところがNobody knowsのまま感染減少の小春がやってきて、時ならぬ「啓蟄」の虫のように蠢いています。

勤め人を止して上海・横浜から大阪に戻り、西区川口の居留地址を何度も歩いています。居留地研究の先生方や港湾関係の皆さんから、キリスト教布教活動や川口華商の活動について教わっています。居留地址の隣の九条新道で繁盛している「吉林菜館」の女傑からは、国共内戦以降の大阪中華学校の創設経緯について縺れた糸を解きほぐしてもらっています。大阪へ越す前に住んだ横浜中華街福建路でも開港・居留地・華僑文化そして孫文に関する旧跡に触れました。その中華街を舞台にした映画『華のスミカ』を九条商店街の映画館で見ました。

横浜の中華学校を核として、中国革命・文化大革命、そして関帝廟焼失の渦中で華僑や華人が経験した対立と和解の歴史を政治から一歩引いた華僑4世が追いかけたドキュメンタリーでした。中華街の紅衛兵だった父親。家のルーツを知った十代半ばから「中国というもの」を避けてきた息子。父と子が対話するラストシーンが印象に残りました。https://www.hananosumika.com (⇐ 映像ページが開き、音が出ます)

子供の頃に町内の豪商の三男坊が東京で洋画家になったと聞かされていた、糸園和三郎の生誕110周年展を大分県立美術館で見たあと、中津に帰郷して、菩提寺で二年ぶりの墓参り。村上医家史料館では1850年の牛痘接種記録と高野長英を匿ったという土蔵を見せてもらいました。いつも立ち寄る木村記美術館で中山忠彦の作品を独占鑑賞してから、南部小学校の楠の大木に再会しました。100年前に難病治療のため小学校を去った糸園和三郎が心の道標とし、最晩年に描いた楠の大木。60年前に同じ小学校に心を残して去った小生も共鳴しました。

               中津市立南部小学校の門と楠

茨木山間部にキリシタンの里があったことを時々耳にしていました。現在は神戸市立博物館の所蔵となっている着色ザビエル像が千提寺の東家で秘蔵された信仰の対象であったことまでは聞いていました。

小春日和のドライブに誘われて朝採りの野菜の即売場で地産地消の定食に満足したあと、ローギアでしか登れないキリシタン遺物資料館に連れて行ってもらいました。駐車場からの坂道の脇の石碑に「北摂キリシタン遺物発見最初の家」とあり、東さんのお宅でした。整理された資料群と内容の濃い解説書(2018年初版)で啓発されたことは、稿を改めます。当日の発見は下り坂の路傍にありました。奇妙な縄張りをしている一角があり、片隅にマリア像が囲われていました。説明書を読むと、最初の遺物発見から間もない1923年に大阪川口教会のビロー主任司祭が信者を訪ね、1928年までに千提寺教会を建てた跡地とありました。ローマ教会と大阪川口居留地と茨木人キリシタンが繋がった厳粛な一瞬でした

  

啓示、啓発を多く受けた小春の「啓蟄」でした。

映画、医学史、美術そして信仰の足跡という精神生活の刺激もさることながら、何にも増して大分の叔母が病を克服して迎えてくれたことが大きな慶びでした。煎茶の家元として卒寿には見えない背筋を真っ直ぐにした一人暮らしを続けています。昔話をしながら、幾度も美味(甘)い煎茶を淹れて貰いました。

戦時下に、大阪から疎開転校したもう一人の叔母や母親の女学校時代の話も聴かせて貰える大切な「小春おばさん」との再会でした。

井上邦久(2021年11月)