【挿隊的日子~下放の日々~】(6)

6.「有利可図」~ぼろ儲け~ 

農村の知識青年の中には、近所の家を訪ねて回るのが好きな者がいて、毎日出かけなければ気が済まない者もいた。これは公社員との関係を良くするのに最も効果的な方法であり、農産品を買うこともでき、その上、おしゃべりをして退屈しのぎをすることもできた。

まずは米。米1斤(500g)を買うには現金2角と1斤分の食糧配給キップが必要で、この米はその年に生産隊が収穫して加工したもの。ニワトリの卵1斤は、6斤分の食糧キップか現金1元と高額な取引で、公社員はこれを「ニワトリ銀行」と呼んでいた。サツマイモやトウモロコシは、1斤分の食糧配給キップで1斤分の現物と交換できる。

手元に余っている食糧配給キップは、知識青年の『取引』の第二の通貨となる。米は公社員の家族が食べるためのもの。卵は購買販売協同組合へ一定量を納めた後のストック。サツマイモやトウモロコシは、自分の家の自由耕作地で栽培したものだ。

食糧と現金や食糧配給キップ、このような互いの足りないものを融通し合う『売買』はこっそりと行うしかなく、もしばれたら物資の横流し、統制購入販売や市場供給違反のレッテルを貼られてしまうこと必定だ。

少々説明が必要かもしれない。経済的に困窮し、文化的にも遅れていたあの時代は、農産品の待遇が全国の他の地域よりも良かった北京市民でさえも、配給キップを出して、しかも規定の分量しか供給されなかった。

雑穀と米が五割ずつで、一人当たり日平均1斤の穀物でどうにかこうにか暮らしていたのだ。男の子が多い家庭は、それは悲惨で、『子供が親の食い扶持まで食べてしまう』とよく言われていたものだ。その日の食べ物にも事欠くありさまでもどうしようもなかった。焦ってみても気をもんでみても仕方ない。

卵はさらに貴重品で、国慶節や春節に限って、副食品手帳と卵配給キップで、一家庭当たり二斤(1㎏)の、新鮮かどうかもわからない卵が供給された。通常は、家族に妊婦か手術後に療養している病人がいる場合、病院の証明書があってはじめて規定量の卵を買うことができた。悪くなった卵を買わされないために、重さを量った後、必ず灯りに透かして検査をし、悪くなった卵を家に持ち込まないようにした。

その頃、ある副食品市場の入り口に、夜のうちに誰かがこんな対聯を貼りつけた。上の句が「二至九(二から九)」、下の句は「南到北(南から北)」、横額は「差什麽(足りないものは)」。これはつまり「一(衣)と十(食)が足りず、東西(物)がない」ということを暗に示していた。市場の供給に対する不満を漏らしたことが、社会に対して不満を持っているということになり、その結果、社会主義制度を中傷し、攻撃したとの批判を受け、政治事件となってしまった。

退屈しのぎにおしゃべりに行く人々の話に戻ろう。

一見したところ交換する農副産品がないような人が大物を釣り上げることもあって、本当にそういうこともあった。

当時、思春期まっただ中の男女の恋愛は、まるでやましいことのように、こそこそしなければならなかった。そのドキドキ感で、長年よもやま話をしているうちに愛情が芽生え、そうこうするうちに結婚してしまうのだ。よその学校から来ていた先輩知識青年の中には、嫁入りや婿入りして農家に永久就職する人たちもいて、私たちのような定住を考えない者たちは、その身を挺した実践行動は農村に生涯を捧げた模範である、と言っていた。

とにもかくにも、近所を訪ねて回るのが好きな人たちには、それぞれ得るものや、楽しみがあったのである。

(2017/10/31掲載)