【挿隊的日子~下放の日々~】(5)

5.「幇助交流」~相身互い~

 

農村では、私たち新米知識青年はきつい農作業に明け暮れた。日に焼けて顔や腕の皮がむけてしまった者もいて、それぞれの顔は来た時よりも黒くなり、身体も丈夫になっていった。公社員とも打ち解け、同年代の人たちとはとりわけ親しくなって、タバコがあれば一緒に吸い、楽しいことは共に楽しみ、辛いことがあれば共に耐えた。

夏の盛りの時期には、自給肥料をトウモロコシ畑まで一輪車で運ぶのだが、ぬかるんだ土の深みにはまった一輪車はバランスを取るのがとても難しく、にっちもさっちもいかない。あらん限りの力を使ったとしても、よろよろと何歩か進んでひっくりかえってしまうこと請け合いだ。これを何回か繰り返すうちに、一輪車は何ともなくても、私たちの方がへたばってしまう。

私たちが地べたで必死にもがき、困っている様子を見て、いつも私たちを助けてくれる人たちが自分たちの一輪車を置いて、肥しの積み方の手本を見せてくれ、こう言った。「前の方にたくさん載せるんだよ。前を重く手許を軽く、そうすると労力を省けるんだ。一輪車は腰で調子を取るのさ」

試してみると、確かに効果があって大分楽になった。

話しているうちに、その中の何人かの出自が良くないことが分かった。それを聞いた途端、私たちは突然のことにうろたえた。『階級の敵かその子女』が目の前にいると思ったからで、すぐに敵か味方をはっきりさせなければ、という衝動に駆られさえした。できることなら伝染病を避けるみたいに遠くへ逃げたかった。けれども冷静になってみると、別に彼らに違ったとこがあるわけでもなく、私たち知識青年が神経質になっていただけだ。

彼らも私たちが訝っているのを感じたらしく、「ごめん。出自が悪いのは誇れることじゃないよね」ときまり悪そうに言った。私たちもまじめくさって「階級区分は自分で選べないんだから」と慰めを言った。

よくよく話を聞いてみると、彼らの地主とか富農とかの『身分』は、新中国成立前にセコセコとガメつく貯めたお金で土地を買ったことで『得た』もので、新中国成立後の土地改革の際、土地は他の農家へ分け与えられてしまって、地主や富農という『レッテル』だけが残された、ということが分かった。これは自分で蒔いた種なのだ。

「僕たち階級区分が悪い家庭の家族は政治運動の対象だろ、一旦運動が始まれば矢面に立たされるからビクビクものだよ」

彼らは地主や富農の類の立場を心から受け入れているわけではなく、不満に感じているようだった。

地主には、貧しい農民を抑圧して民衆の恨みを集めている悪逆無道なボスもいれば、金儲けのために土地を買い、悪知恵を働かせて農民を傷つけた結果、極悪の評判が者もいた。

新人知識青年の階級教育の場で、年配の貧農が昔の苦しみを思い出してこう言っていたのも納得できる。

「地主は俺たち貧農に対して残忍で下劣だったよ。農繁期、俺たちは地主の家の家畜よりも多くの、きつい、疲れる仕事をやらされた。家畜を休ませても、人は遊ばせておかないのさ。たまに肉を口にするときだって気持ちよく食べさせたりはしない。肉が煮上がる前に塩をどさっと入れて、それから冷たい水を加えて冷ますんだ。塩辛くて油っこい肉なんぞ何切れも食えたもんじゃない。のどが渇いて水をがぶ飲みする。これはどういうことかと言うと、『水神さまのおもてなし――水だけで腹いっぱい』なんだ。これこそが農民を搾取する地主の陰険で悪辣な手口で、こうして金を貯めて土地を買ったわけさ」

年配の貧農の回想は、この村の地主は悪事の限りを働いて農民を搾取し、他人の土地をかすめ取った大悪党ではなく、せいぜいがとこ親切心のない、狡猾でずるがしこい奴だったということを側面から証明している。

今では人々は実際の状況にもとづいて自分で判断したり、語り合ったりすることができるが、もし『階級闘争を以って綱要と為す』の年代に地主や富農、その子女がほんの少しでも濡れ衣であると漏らしたり、人々が憐れんだりしたら、例外なく批判や闘争が待っていて、悪質分子か反革命分子のレッテルを貼られてしまう。

幸いなことに、その年代はもうはるか遠くに去り、そして永遠に過去のものとなったのだ!

  

※確認したところ、作者が所属していた公社では知識青年と出身の悪い青年たちは対等に話をしていたということでしたので、彼らの会話は対等な感じで訳しています。

(2017/09/26掲載)