【中国あれこれ】『第六章 現代中国への道 ⑤』

1986年6月、梅雨のない東北地方は晴天だった。未明の早朝に北京を出発した列車は昼過ぎに遼寧省叶柏寿駅に到着した。当時の列車は時間調整のために時に数十分停車する。我々はゆっくりと下車の準備をした。何気なく車窓の外を見ると、ホームに「司法」と書かれた白黒のパトカー色に塗られたクルマとジープ型の旧式北京号が数台並んでいた。日本では駅のホームにクルマが並ぶ光景を見ることはまずないであろう。それが通常ではないことは瞬時に理解できた。
「誰か偉い人でも乗っているんですかね」私は外を指さし言った。
「そうやな、北京から役人でも乗っとるんと違うか」伊藤忠商事のI氏が外に並ぶクルマを確認しながら応じた。
我々は暫し下車するのを待ち様子を伺った。しかし、その車両から誰も降りる気配がない。仕方がなく我々が乗っていた車両の前に並ぶクルマに遠慮するように列車を降りた。
「いすゞ自動車の皆さんですか」とカーキ色の制服を着た大柄な男性がにこやかに声をかけてきた。
「はい、そうです」
「ようこそいらっしゃいました」と五、六人の出迎えてくれた人達が握手を求めてきた。ホームに並ぶクルマは我々を迎えに来たものだった。でも、それが何故「司法」のクルマなのか。それはその数時間後に知ることになる。

遼寧省凌源市にある凌河汽車工業公司との契約により中型トラックのKD(ノックダウン)組立て技術指導のために、私は営業担当として先輩の技術者二名と契約窓口である伊藤忠商事の担当者I氏と共に当地を訪れた。
駅舎の前には馬車がいる以外、駅周辺には何もなかった。
我々はクルマに乗り込むと目的地である凌河汽車工業公司汽車製造廠に向けて駅をあとにした。原野を数時間かけて走った。途中、どう見ても道路ではない所が何か所もあり、クルマの天井に頭をぶつけるほどクルマ上下左右に跳ねるように走った。まるで遊園地のアトラクションのようだ。ようやく、ちらほらレンガ作りの建物が見え始め、街らしくなりクルマは宿に着いた。
「ん?ここは?」
『遼寧省司法庁凌源労改分局招待所』

当時、招待所は各機関や国営企業などが所有する地方出張時に宿泊できる施設であったが、そこは司法庁の招待所だった。確かにとてもその街には大きなホテルがあるようにはみえなかった。我々には高級幹部が来た時に宿泊する部屋が用意された。招待所の食堂で歓迎宴が催され、長い一日は終わった。
翌朝、マイクロバスに乗り30分ほど走ったであろうか、高い大きな塀が続く場所に近づいていることに気が付いた。塀の上に監視員が銃を持っているのが見えた。
凌河汽車工業公司汽車製造廠は労働改造所の中にあった。現在では強制収容制度が変わりその存在はないが、当時労働改造所とは主に政治犯・思想犯を労働を通じ再教育する強制収容所であった。だから刑期も長いものではなかったと聞く。
大きな門が開いた。我々を乗せたバスが中に入る。進行方向の目の前にさらに門があった。今くぐった門がバスの後方で音をたてて閉まると前方の門がゆっくり開いた。まるで映画のワンシーンのようであった。一瞬だが、後方の門が閉じ、前の門が開くまで真っ暗な空間に置かれた。その時の光景は背筋に何か寒気を感じさせるものだった。話す声も小さくなった。
「ここですかね」
「この中に工場があるんだな」
「帰れますよね」
「・・・・・・」皆、口を閉じた。
我々が想像した通り、その施設内には横浜港で船積みしたKDの木箱ケースが並んでいた。

技術指導の段取りに関する打合せを終え、工場の現場による組立指導が始まった。囚人と呼ぶのか、それとも思想改造を教育される生徒と呼ぶのかは分からないが、そこにいる工場労働者は皆真面目で真剣に指導を受けた。各労働者には学習用に先の丸まった短い鉛筆と手帳サイズに切ったわら半紙を紙の紐でとじたメモ用紙が配られていた。労働者からはかなり専門的な質問があった。中には大学で自動車工学を勉強しているという優秀な学生もいた。

初日の休憩時間に施設内の見学が手配された。
自動車製造以外にも中国の工芸品を制作する者、養豚をする者、農業を行う者など、複数の労働を通じ思想教育が行われていた。現在であれば強制収容所を外国人が見学するなどということはあり得ないことであろう。施設内は明るく、彼らの居住区も牢獄のイメージはなく、大部屋にベッドが並び、廊下に出ることは自由で鉄格子で閉ざされることはされていなかった。当局が人間の尊厳を重視していることが分かる様子だった。
その夜、施設内では我々の歓迎の宴が開かれた。その場に施設内労働者が何百人いたのかは分からないが、舞台では楽団による演奏と舞踊が披露された。この様子を語ると長くなのでまた別の機会にご紹介したい。

凌河汽車工業公司は1994年に打ち出された中国自動産業政策以降、第一汽車集団傘下となり、現在も大中型トラックメーカーの重点企業としてその存在を示している。
世界一の自動車大国となった中国は自国市場の発展のみならず、品質においても世界水準に並ぶまでに成長し、特にEVでは世界を牽引している。2023年度の中国国内全需は初めて3000万台を超え、輸出も日本を抜き共に世界一となり、第14次五か年計画の目標は2年早く達成した。

1953年に本格的自動車製造を始めた中国は70年の過程を経て世界の自動車大国となった。その発展の歴史には、様々人間の努力があったことを恐らく多くの人は知るところではないであろうが、中国が世界一の自動車大国になったことは知っている。
凌河汽車もその一員であることを私は忘れない。

(幅舘 章 2024年2月)