中国の自動車産業は1953年、第1次五か年計画開始と共に旧ソ連の援助によって,長春第一汽車製造廠(現第一汽車集団公司)の建設から始まった。1980年代になると中国は文化大革命による産業の遅れを取り戻すべく、自動車産業においても政府は発展政策を加速させた。当時の中国製車両の品質は西側自動車生産国のそれとは大きく差がついていた。開放政策により需要が高まり、乗用車もトラックもバスも隣国日本からの完成車輸入が増加した。一方で旧ソ連の技術による車両品質に限界をみた中国は自国生産車の品質向上の為に日本の自動車技術を「技貿結合契約」により導入することになる。技貿結合契約とは車両技術、生産技術を得る対価として完成車を輸入するというものである。
1985年、まだ入社して3年目の私はこの契約により夜遅くまで残業の日々を送った。パソコンも携帯電話も、ワープロ(今は死語かもしれない)ですら無い時代、書類は全て手書き、北京事務所との連絡はファクシミリに頼るしかなかった。しかも、海外企業の北京事務所にファクシミリの機械を置くことが許されず、本社から送信されたものは先ず北京電報大厦に届き、電報大厦から連絡があると取りに行かなければならなかった。事務所に直接ファクシミリが送信されるようになったのは1988年頃だったと記憶している。
技貿結合契約は中国汽車進出口総公司が貿易の窓口であったが、しばしばLCの開設が遅れ、横浜港大黒ふ頭には中国向けのトラックが溢れた。担当取締役が中国側との交渉の為に自ら北京に赴いたが、先方のアポイントを取るにもなかなか電話がつながらず、日ごと重い空気が事務所に漂った。
「幅舘!電話はまだ繋がらんのか! 直接向こうに行ってアポを取ってこい!」ピリピリマックス状態。結果は分かっていたが、先方へ出向き受付カウンターの女性に担当者の呼び出しを申し入れるが返事一つ返してこない。丁重に何度も何度も同じことを言わざるを得ない。そのうち、不機嫌に「他不在!(彼はいない!)」と何の確認作業もしないで応えた。
「明日はいらっしゃいますか?」
「不知道!」(知らん)
「どのようにすれば連絡がつきますか?」
「不知道!」
何を言っても埒が明かない。その内、受付嬢はカウンターから姿を消してしまう。私のような客が毎日のように何人も同じ目的で来るのだから、受付嬢にしてみれば逃げたくなるのも無理はないのかもしれない。当時の中国の機関はどこに行っても同様の応対だった。カウンターで担当者に取り次がないことが仕事ならば、それを与えられた受付嬢もある意味気の毒にも思える。しかし、今思えば、それは故意に不親切であったのではなく、計画経済からの脱却過程において、我々が思う来客の応対方法を知らないだけだったのだと考える。
その頃の中国を知っている方々の中で、30年後の中国がアメリカと世界を二分するような経済大国になると予測できた人はどれほどいたであろうか。きっと大半の人は日本が追い抜かれるとは想像できなかったに違いない。
第14次五か年計画も半ばを過ぎ、「中国製造2025」の目標達成に向け、追い込み体制に入っている現状、EVで世界を牽引する中国だが、当時の自動車産業政策には日本の技術が間違いなく貢献している。
その中国経済の発展を支える多くの民間企業の受付は笑顔で客を迎えてくれる。
受付はその会社の「顔」であり、それがビジネスに影響することを今の中国は理解している。
(幅舘章 2023年12月)