毎年9月の初めは京都深草の石峰寺での若冲忌を綴ることが多い。今年はTAS(華人研)www.kajinken.jpの例会に重なり、法要に参加する代わりに、事前に寺が所蔵する若冲作品の内覧会に出向いた。
8月に寺のお宝(住職と作品)が人気美術番組に紹介されたこともあり、初日早朝から長蛇の列ができた、とメディア敬遠派の住職はとまどい気味だった。若冲への関心が薄かった1950年代から作品収集を続けたプライス夫妻が春から夏に逝去したことも話題になった。ジョー・プライス氏がシレっと「日本で巡り合った最良の作品は、ワイフの悦子」と惚気ていたことを思い出す。
プライス氏が初来日した頃に生まれた草刈正雄の半生にスポットライトを当てたNHK「ファミリーヒストリー」が反響を呼んだ。国鉄時代、日豊本線の下り準急列車は小倉を出ると行橋、そして次は中津に停車した。行橋でバスの車掌だった母親と米軍に接収された築城基地の米軍兵士との出会いがあり正雄が授かった。まもなく父親は朝鮮半島に向かい戦死した、ことになっていた。
筆者は生まれ故郷の中津から転々と移住し、山口県徳山市で中学から高校の初めを過ごした。髪を伸ばし始めた頃に資生堂が男性化粧品MG5を売り出した。銀と黒の市松模様の意匠と、斑の猟犬を連れた京都生まれの団次郎がブランドイメージを担った。草刈正雄は弟分として登場し、二人は「日本人ばなれした」容姿のモデル・俳優として注目を集めた。脚の長さは違っても、草刈正雄は同世代であり、同郷(小倉・行橋・中津は豊前国)なので気になる存在であった。
彼の出自に戦争とOccupied Japanの影を感じていた。
番組の調査の結果、母親から聞かされ本人も信じ込んでいた「戦死した父親」は、朝鮮半島から米国に生還し、再婚して10年ほど前まで存命であったという残酷な事実が知らされた。言葉を失った感のある草刈正雄の表情に俳優のそれとは異なる印象を感じた。
朝鮮半島で緊張が増していた頃、台湾を密出国し、1949年9月30日に天津に上陸した朱實(俳号:瞿麦)老師は今春に大往生された。納骨式が老師の誕生日でもある9月30日に上海で催される。とても残念ながら今回の上海への渡航は断念し、東京在住の一人息子さんの朱海慶画伯に欠礼のお詫びをして二人で老師を偲んだ。朱實老師については『上海の戦後・人びとの模索・越境・記憶』(勉誠出版)などに小文を寄稿してきた。ここでは台湾に帰郷できた時、亡父母の墓前で作られた句「掃苔や幾星霜の祈り込め」を紹介するに留めたい。
7月上旬から7週間、経過観察や定期検査の通院と食材購入の他は外出を控えてきた。恒例の高校野球大会もテレビで観戦した。その中で8月16日は久しぶりに京都、佛教大学紫野キャンパスで夕方から行われた「送り火」特別講座に参加した。八木透教授による梵語のウランバナ(盂蘭盆会)由来説から送り火の意味まで興味深いお話を聴いた。十五世紀末、足利義政の愛息早世を弔う「大文字」を起源とする送り火についての想像力に満ちた解説には説得力があり、控えめな姿勢が魅力的だった。
江戸慶長年間から途切れることなく続いた行事が1943年~1945年に灯火管制の為に中止となり、代わりに白い体操服の人や児童が山に上り「大」の人文字を作ったとの説明があった。担ぎ上げる人手も少なくなり、燃やす松明も松根油(crude tall oil)用途を優先されたのかも知れないと愚考した。
灯火管制は1945年8月20日で解除され、1946年8月16日から送り火は再開されたとされる。(なお、1950年の福岡市、小倉市、行橋市では板付基地防御のため灯火管制が行われたとある。)
講演後はスライドやビデオを鑑賞しながら下鴨茶寮の弁当、佐々木酒造の清酒を楽しんだ。20時過ぎに大文字から順に点火されて、いよいよ左大文字の番になった。裏庭の正面近くの山に筆順通りに火が連なっていった。
この世を留守にしていった人たちを静かに見送ることができた。
毎年8月15日正午、炎天下の 甲子園球場の選手や売り子の動きが止まる静寂の中で黙祷をする習慣であった。これからは佛教大学での送り火を追悼の習慣にしたいと思った。
「死ぬときは箸置くように草の花」(軽舟)・・・代表作ということになっている、と作者は控えめに書き、続けて母もいちばん好きだと言っていた、と大切なことをさらりと綴っている。・・・
(小川軽舟『俳句とくらす』中公新書より抜粋)
前から句集を編んだらどうかと亡母から言われてきたが、菲才の凡句を集めるとマイナスの二乗となるので控えてきた。
今回は朱實老師や軽舟氏には瞑目願って、手向けの拙句を並べます。
「藻刈舟流転の果てに櫂を置き」
「夏の朝拾い残した母の骨」
「送り火は彼岸に向かう澪標」