【日中不易流行】『「野尻眼鏡」中国盛衰記』

前回スキップしました『野尻眼鏡』中国盛衰記:野尻眼鏡グループの20余年の中国ビジネス栄枯盛衰に関わった中国人幹部のアナザーストーリーについて書いてみたいと思います。

私が最初に彼らに会ったのは、1997年の銀行の上海事務所長の時でした。1989年から豊富な政府関係人脈を駆使して中国法人を立ち上げたカリスマ的な日本人代表に、中国の威信をかけた宝山製鉄所プロジェクトの際に通訳として日本語の徹底教育を受けた英才3名と紹介されたことを今でも覚えています。当時は日本語ができる中国人は貴重で、政府関係者とのどれだけ強力なコネがあるかが問われた時代でした。現在NHK大河ドラマ「どうする家康」では特に功績があった家臣を「徳川四天王」と言っていますが、上海野尻設立に製造・管理・財務で功績があった「中国人三羽烏」と言われ、重用されていました。

その後私が直接関わったのは製造系の二人ですが、仮にA、B、C氏としましょう。通訳という立場もありましたから、昼夜問わず一緒に行動して色々エピソードもあります。教訓的なこともありましたが、「それはまた別の話」という事でここでは割愛します。

A氏は2004年まで、一番長く野尻にお付き合いいただきました。10年超福井県人と話して、イントネーションの上がる福井訛日本語になっていたので親しみがありました。副総経理と言う立場で、現場の中国人とのつなぎ役を良くやってくれましたが、最後は本社からの出張役員に干された形で退職。生真面目で、「没問題」と安請け合いしないタイプ。眼鏡製造現場で色んなタイプの日本人総経理に仕えました。順番に、叩き上げの技術系プロパー総経理⇒大手メーカー出身経験豊富なガンガン行くタイプの総経理⇒現場経験無しの金融機関出身総経理と、出自・性格が全く違って仕えるのが大変だったと思います

最後の現場経験のない総経理の時代、技術的なことは日本本社主導で現場を動かし、「日本人に言う事だけを聞け」との体制の中で、現場が破綻。納期遅延大量発生の責任を擦り付けられ、我慢強いA副総経理でも、さすがに「もうやってられない」と何かを悟っての退職であったとのこと。前任の大手メーカー出身の総経理の時代は、豊富な海外経験で製造現場と財務管理面での改革を日本本社の管理本部長の職責にあった私と連携して行いました。定例会議での総経理との激しい議論には毎回緊張感があり、現場との橋渡し役のA副総経理は生き生きしていました。また、当時の総経理は日本人と中国人とのフラットな関係と信頼関係構築に気配りをしており、日本からの出張者を特別扱いすることを嫌っていました。

しかし、総経理交代のタイミングで一番やってはいけないこと。今までの積み上げた信頼関係を壊したのは日本本社でした。「これからはすべて日本本社からの出張者が決める。言われたことを通訳しさえすればいい」と言ったのですから。A副総経理のその後の消息は、温州へ行って日本からのOEMでチタン製の生産の工程管理・品質管理に力を発揮したとのことです。まさに「お眼鏡にかなった」わけです。野尻眼鏡大学卒ブランドが効いての好待遇で、子息を海外に留学させたとか。元々宝飾関係が専門でしたし、きっと中国成長の波にのってお金持ちになった気がしています。野尻の卒業生として幸せなその後と聞いて、もう一度あの福井弁「ほんでぇ⤴」が聞きたいものです。また会いたい中国人の一人です。

一方で、最初に副総経理となり、3名の中では一番目立っていたB氏。最初の印象は、極めて優秀そうですが、何を考えている分らないタイプ。1998年頃退職して、独立。上述の大手メーカー出身の総経理が管理強化の為に赴任して、財務管理面を全面的に仕切っていたプロパー総経理時代のようには思い通りにならない会社に見切りをつけたということでした。「金の切れ目が縁の切れ目」だったのでしょうか。その後、スポンサー企業を見つけ、熟練技術者を上海野尻グループより引き抜いて江蘇省丹陽に会社を設立。日本からチタン製眼鏡のOEMを受注して、福井にも会社を設立して一時期は大変羽振りがよかったそうです。以前紹介しましたNHKクローズアップ現代で「メイド・イン・チャイナの激安メガネ」としてB氏が紹介されたのはこの時期です。社長然と以前より少しふっくらしたB氏と鯖江で偶然会って、お互い驚いたことを覚えています。しかし、好事魔多し。原因は定かではありませんが、その後経営破綻。焦りがあったのか、野心が前に出過ぎて「策士策に溺れる」タイプといったら「眼鏡違い」でしょうか。今もまだ眼鏡の世界でたくましく生きていて、鯖江でまたバッタリ会いそうな気がします。

最後のC氏は、販売部門を統括しており、あまり接点はありませんでした。如才ないスマートな営業マンと言う感じで、大手日系のレンズメーカーの上海現法総経理に引き抜かれて行きました。秘めた野心もあったのでしょうが、上海野尻で培った人脈をフルに活用しての極めてスマートな転進であったと思います。

三者三様それぞれです。皆さん才能あふれる優秀な方でしたが、アフター野尻で何か明暗が分かれてしまいました。1990年代の中国激動の成長期に眼鏡業界にも「フォローの時代の強風」が吹いて、中国人にとっても自分の才覚で勝負する「チャイナドリーム」に溢れていました。成功者とは、器量、知能、体力、容姿、信条など何か優れた共通点を持っているという「特性論」もありましたが、現在では資質ではなく経験の共通性に重きを置くようになっています。その経験要素で大きい位置にあるのが、失敗や挫折の経験だと言われています。「才能と成功の方程式」を解くのは難しいですが、野尻眼鏡での副総経理としてのキャリア如何がその後の運命の分かれ道でした。また、その時々の日本人の不手際こそが中国人幹部の離職問題の原因と考えています。「三羽ガラス」の一人でも「ガラスの天井」を突き破り、総経理になってほしかった。地方の中小企業は慢性的に人材が不足しています。特に多文化に対応できるグローバル人材が求められていることは、今も昔も変わりません。

さて、私のアフター野尻。野尻を辞して3年後、今度は「真逆の社風」の上海現法総経理としてディープな体験をすることになります。次回はその時のお話をしたいと思います。紙面が尽きました。『「野尻眼鏡」中国盛衰記』は今回にて終了とします。   

福井大学 大橋祐之 (2023年6月)