野尻眼鏡中国盛衰記も5回目となりますがお許しを。
野尻眼鏡グループの中国ビジネスの転換点となった2回の工場移転。まず、2004年上海大学嘉定分校内キャンパスからの1回目の工場移転。2回目は、上海嘉定区工業区からの突然の立退き要請による2008年の強制移転。その後、野尻眼鏡グループは、2012年自己破産して上海の現地法人はすべて清算。これら2回の工場移転から清算業務を担った上海の責任者からのヒアリングを参考にして以下記したい。
2003年の既存の上海精科光学有限公司(1993年大学との合作:組立工程)、上海福嘉宝飾有限公司(1993年大学との合作:金型、部品工程)の合併による上海野尻光学有限公司設立。さすが大学キャンパス内の工場立地では無理が生じ、部品製造と組立工程が別会社の非効率性を排し、メッキ工程を新たに追加してチタンフレームの最新鋭一貫生産工場を設立した。合作から野尻本社100%出資。資本金1,010万米ドル。約32,000㎡の敷地に延16,000㎡の工場。従業員約1,000名。従業員用駐車場有と贅沢な造作の事務室と広々とした工場を記憶している。
従来チタンメッキについては日本で処理していたが、新工場ではメッキラインを新設して、眼鏡完成品までの一気通貫体制を敷いた。生産拠点の集約化により、品質管理の徹底とコストダウンを推進し、中国市場を含めた海外競争力の強化を目論んだ社運を掛けた大プロジェクト。また、眼鏡フレーム以外にも新たなメッキ技術の開発を進め、IT関連製品への事業展開を目指した。2004年6月に盛大に行われた完成式では、「新工場を世界一のチタン工場、さらにはIT技術を施した最先端のメッキ工場として位置付け、野尻グループの飛躍の一歩にしたい」(2004.6.17福井新聞)と社長は今後の夢を力強く語った。
ここがまさに勝負のタイミングであったのだが、社長の強気の発言の裏側には、現地総経理を悩ます色んな裏事情が渦巻いていた。今まで中国でのメッキ工程は、50%出資合弁会社上海野尻眼鏡有限公司の旧式設備に依存。そのため、メッキ工程を独資工場内に取り込むのが必須であったが、上海嘉定工業区内で通常の眼鏡のメッキだけでは、新規認可が厳しいメッキライセンスは取得できなかった。申請書には、IT部品に特殊なハイテクメッキで高付加価値をめざすとし、大手電子メーカーから日本人技術者を新たに採用。
しかし、実際の稼働後のこのITメッキプロジェクトは、眼鏡と電子部品のメッキレベルには予想以上の差があり、先端技術導入による当初の目論見は大きく外れた。元々メッキ専業ではなく、見通しが甘かった。3年後にようやく獲得した顧客は釣り具メーカー。釣り竿のリングのメッキを最盛期月産100万個処理。薄利多売。検品作業等で新たに100名超の雇用を強いられる結果となった。
さらに眼鏡のメッキ内製化により思わぬ問題が発生。メッキラインは中国でのチタン製眼鏡の一貫生産を目的にしたものであったが、これにより製品の原産地は「Made in China」になった。これが結果として最大のOEM発注先に嫌われてしまい、受注が減ったのだ。「Made in China」であれば価格が安い中国メーカーで十分。市場は、あくまで「Made in Japan」のブランドがついたチタン製眼鏡を求めていた。メッキの内製化は本来強力な強みとなるべきであったが、裏目になったのだった。今から考えると、冷静な多角的な事前検証が抜けていた余りに残念な話である。
ここで、話は野尻眼鏡より離れるが、眼鏡のメッキから出発してメッキ専業として中国で成功している会社も存在する。
鯖江の眼鏡メーカーの株式会社サンリーブは、1997年に江蘇省昆山に蘇州三麗鍍金有限公司を稼働させた。やはりメッキ業の許認可取得には苦労して、既存のライセンスを買い取る形で、眼鏡製造会社とは独立した形となった。この会社自体は、2016年の全額持分譲渡まで会社としては存在するのであるが、実態としては2001年に大連に精密メッキ専業の別会社を立ち上げた。結果としてグループから離脱であったが、眼鏡メッキで昆山に進出したことにより、眼鏡メッキの限界と中国の他分野でのメッキ業界の可能性を見出し、大連という最適地での果敢な挑戦を行ったのだった。
当初1億円の投資からスタートして、この20年間で2回の増資、3回の工場増設。投資規模は10倍以上と業容を拡大している。まさに中国投資の金言「小さく生んで大きく育てる」の会社。現在では、脱眼鏡メッキに成功して、眼鏡のシェアーは数パーセント。技術相談案件には、オンリーワン企業として「何にでもメッキする」ことをポリシーに、自動車部品、電子部品、炭素繊維…と現在は「中国でのメッキの駆込み寺」として進化している。餅は餅屋。この企業の成功譚で1回分別稿書けそうであるが、福井では本当に成功している会社は得てして寡黙であり、多くを語りたがらない。
鯖江でも中国でも、メッキは排水・廃液処理の環境問題があり、許認可が厳しく新規参入が難しい。
一部は水を使わないドライメッキに移行しているが設備投資が大きい。最後の色味や耐腐食などの機能性の面で、仕上げのメッキ工程は極めて重要。メッキ工程と言うより広く表面処理工程は眼鏡製造の出来不出来の「最後の砦」である。野尻眼鏡グループも、製造工程と表面処理工程を日中で分業することにより、結果的にチタン製品のコピー品を防止していた側面もあった。眼鏡のメッキと繊維の染色。環境問題規制による高い新規参入障壁を一旦乗り越えた会社のパイオニアメリットは、将来は保証されていないものの今までの既得権は大きかった。
さて、話を野尻眼鏡に戻します。
社運を賭ける新会社上海野尻光学有限公司の総経理にはさらにもう一つ人に言えぬ悩みがあった。新工場のメッキ設備の通関手続きに不備があったのだ。当時のコンテナによる輸出入では不適切な処理もあったが、後処理(代金回収)ができなくなるので、もうやめたはずだった。税関の査察が入り、会社の経営に影響を与える多額の罰金を請求されることとなった。工場移転という大プロジェクトで全心身を賭して多忙な総経理は、さらにその対応に迫られた。日本本社は助けてくれない。不適切な通関処理自体許されるわけではないが、査察は内部告発によるものであり、前々回に書いた2003年のコピー品販売業者の告発で元従業員が逮捕されたことの報復であったと総経理は今でも信じている。結局、この問題を解決するのに2年の多大な労力を費消し、約100万元の罰金で決着した。
そして、更なる試練が押し寄せる。2006年突然に立ち退き問題の発生。2006年10月某日。その文書は突然FAXにて送りつけられた。「上海市嘉定新城(街)建設管理委員会弁公室」第10号文書で、都市計画実現のため第1期立退き企業として24社記載されており、その中の日系10社の中に上海野尻光学の名前があった。嘉定工業区への1回目の移転に係るトラブルをまだ引きずっている中で、わずか2年余での立退き問題。なんというタイミング。この問題は、当時産経新聞や日経新聞にも「チャイナリスク」として大きく取り上げられ、上海総領事館やジェトロを巻き込んで大問題となった。他の日系企業が、ハウス食品、呉羽化学、神戸製鋼などの大企業なかで、野尻眼鏡グループは地方の中小企業として新たな試練に立ち向かっていったのである。
紙面が尽きました。この立退き問題の顛末については次回とします。
福井大学 大橋祐之 (2022年10月)