「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 (俵万智)
七月六日、直江津 文月や六日も常の夜には似ず (芭蕉・奥の細道)
西行500回忌の1689年に陸奥を歩いた芭蕉の句は、333年後の今宵も多くの人が口にすることでしょう。1987年に俵万智が新鮮な衝撃を与えた歌集を35年後の7月6日に多くの人が思い出し、サラダの味を気にしたことでしょう。
300年を隔てた7月6日の意味に気づかせてくれたのは、作家の丸谷才一であったと俵万智自身が呟いています。丸谷才一のおかげで二つのベストセラーが「衆口難調」に陥らず、七夕とサラダが結びつきました。その意味でも、日本の韻律詩文の流れのなかで7月6日は大切な記念日になったと思います。
七夕を翌日に控え、笹を準備して短冊を飾り、星の伝説に思いを馳せる習慣は今も残っています。中国語や中国文化の入門材料として、元旦・上巳節・端午節・七夕節・重陽節という奇数月日が重なる日が使われます。生活習慣に残る節句の言葉の学習を通じて、文化伝統を初歩的に学びます。西欧化とともに元旦は陽暦の1月1日が休日となり、会計年度の初日になります。しかし西暦の新年ではあっても「過元旦!」という通過点に止まり、陰暦の春節を待って「新年好!」となり、お年玉(紅包)のやりとりをすることは知られてきました。
7月7日は、七夕情人節とも呼ばれ男女のプレゼント交換(主として男から女への一方通行)が盛んです。上海での駐在時代、古北路・仙霞路の宿舎の近くの「小譚花店」にしばしば立ち寄り、安徽省出身の譚さん夫妻とお喋りをしながら、日本出張の折に頼まれる商品(ベビーミルク・花切鋏など)の打ち合わせをしました。ただ二月のバレンタインデーや七夕情人節の繁忙期は商売の邪魔をしないように素通りしたものです。
上海も漸く封鎖が解かれ、赤いバラの書入れ時に間に合ったことでしょう。
いつぞや、その7月7日に販促イベントを企画した日系企業があり、内外から多くのクレームが発せられ、慌ててお詫びして中止したと聞きました。2012年前後の緊張した時期には、反日感情を刺激しないよう、多くのコンサルタント会社から過剰ともいえる自主的配慮と要注意日のリストが流されました。
「日本語は使うな、英語にしなさい」
「お古の中山服を着ていれば安心」
などと少々ピントがずれた助言も目にしました。7月7日は、要注意日の上位に位置づけられていました。
過剰反応の反動による気の緩みなのか、緊張感が減っていたのでしょうか?長年にわたり中国市場でビジネスを継続してきた大手の企業が、わざわざ7月7日、七七事変(1937年・盧溝橋事変)の当日にイベント企画をするということは単なるケアレスミスとは思えないことです。日本本社の海外事業管理部署・中国現地法人の危機管理部・企画会社の幹部には多くの中国貿易経験者がいることでしょうし、日本留学後に入社した中国人社員や現地採用の職員も多く在籍していると想像します。
俗にいわれる「中国通」と目される社員たちの厳しいフィルターに引っ掛からなかったのか?中国人社員の是非判断が為されなかったのか?実に不思議です。歴史教育の風化、85年前のことまでコミットできない、とする居直りの風潮や趨勢の中での決断とも思えません。
想像をたくましくすると、
「この日は拙い」
「別の日にすればいいのに」
という素朴な声が社内で届きにくい体質が主要因だったのかも知れません。
そうだとすれば、歴史認識の議論より前の段階、「溝通」(gou tong:コミュニケーション)の問題となります。
6月の異常な酷暑が尽きて、7月も尋常ではない暑さが続いています。ご自愛専一にてお過ごしください。
時間が取れれば喧噪と暑気を逃れて映画館で過ごすのも一手です。とりわけ『プラン75』や『教育と愛国』を観ると背筋が凍りつくことでしょう。
文月や六日の次の分かれ道(拙)
(井上邦久 2022年7月)