『6月のリンゴ』

連句・俳句・随筆の集まり『子燕』は、戦中戦後の神戸で橋閒石氏が主宰した結社『白燕』の流れを汲む人たちが起こして十数年になります。誘われて末席を暖める間もなく、上海での駐在が決まりました。素養も経験も無いことを自他共に承知の上での員数会わせ、枯れ木も山の何とやら、といった感じでした。

メールを使って、無手勝流で連句をつなぎ、例会に投句するために頭を捻ることが日本語を使うことの少ない外地生活の中で、母語を細くさせずに済んだと有りがたく思っています。

宮崎在住の同人から第5句集『梯子』を届けて貰いました。第4句集『林檎』以降の生活や心境の変化を定型詩に率直にまとめられていました。その後書に添えられた洛東金福寺を訪ねた文章に触発され、壬生寺北門近くのNPO作業場(「屯所」と個人的に呼んでいます)を早退してバスで向かいました。

蕪村が金福寺の芭蕉庵を再建し、呉春らの門人と句会を催したとのことです。

寺の名前とは異なる禅宗らしい佇まいの本堂で雨宿りし、小高い場所にある芭蕉庵でまた雨を避けてから、さらに登ると蕪村や一門の縁者の墓碑や句碑が並んでいました。眺めの良い場所に「徂く春や京を一目の墓どころ」という木札もあり、少し理知的で皮肉っぽい虚子らしい句だなあと感心しました。

ささやかな梅雨時の洛東散歩を『子燕』季刊誌のコラム用に綴りました。

その短いコラムに「苹果が巨像に踏み潰されたような六月」の一行を滑り込ませました。コラムとエッセイの違いには諸説あります。時事性の有無が区分けの一つかなと思っています。語源的にはコラム(カラム)は円柱であり、「Life is a prison without bar」のbarにも通じるでしょう。リンゴ、林檎、苹果蘋果

6月後半、大島康徳さんのブログを追いかけていました。数年前に発癌を公にしてからもNHK解説者として飄逸な大分弁で元気な姿を見せてきました。

大分県中津市生まれの同郷人、中津工業高(中津東高)から中日ドラゴンズへ。年間最多代打本塁打記録を残す一軍半選手時代。1974年の巨人との最終試合は長嶋茂雄引退試合として繰り返し放映されています。先にリーグ優勝を決めた中日ドラゴンズは同じ時間帯に名古屋でパレードをしており、大島は一軍半を代表して長嶋に花束を渡しています。中心選手となった後、日ハムに移籍して、2111本安打(当時最年長記録で名球会入り)を残し、監督も務めています。

名球会入りの直後に中津市市民栄誉賞を受賞。中津市出身としては福沢諭吉以来の知名度を持つ人になりました。横浜の古本屋で買った名球会COMICS「大島康徳」(江本正記作・岡本まさあき画)には、中学のバレーボール部で活躍中の大島少年が相撲部の員数合わせに駆り出され宇佐神宮御台覧相撲大会で13人抜きの個人優勝を果たしたこと、それを見ていた中津工業野球部監督の小林先生から粘り強く勧誘を受けたことなどが描かれ身近に感じました。

立命館大学の名捕手だった小林先生が中津東高校に着任した折、井上茶舗の二階に下宿しました。下宿先の頭でっかちで虚弱な小学生を練習や遠征に連れ出し、ボールボーイとして鍛えてくれたお蔭で、快活な野球少年になりました。

金福寺門前の和菓子屋で「名物『水無月』は今日まででっせ!」と声を聞いて、「そうか、今年の半分が過ぎた」と思い起こしました。そして同月生まれで一歳年長の大島康徳さんに「あと一年半、がんばっちくり」と語りかけました。

甲子園を目指す地方予選が始まる中で、大島奈保美夫人がブログを代筆する日々、そして訃報が届きました。

言わずもがな(多余的話)ですが、息子に旧満州国年号の「康徳」を名付けた父君は戦前に中国東北部で働き、引き揚げ後は国鉄に勤めています。故人は自分の名の由来を意識したどうかは不明ですが、歴史につながる「康徳」世代の最後の一人でしょう。

https://ameblo.jp/ohshima-yasunori/entry-12684627163.html

井上邦久(2021年7月)