花の季節、NHK中国語講座のテキストの一節を思い出します。
梅花开了桃花开了 蝴蝶飞来飞去(梅花開了桃花開了、胡蝶飛来飛去) 1969年、高校二年の春、テレビ講座で初めて接した生の中国語でした。北京人の金毓本(愛新覚羅家の御一統)・1941年に青島から来日した高維先(東京中華学校校長→天理大学)両先生の声が耳に残っています。日本と中国の国交がない中でローマ字表記や簡体字を率先して採用した画期的な講座でした。
中国の花と言えば梅・桃・牡丹であり、桜は日本のものという理解をしていました。1972年の国交正常化前後、日中友好運動が盛り上がる中で各地に友好都市が縁組みされ、記念碑を建て、桜を植える事が大ブームとなりました。半世紀が過ぎ、ブームは去りましたが北京の玉淵潭や太湖湖畔が桜の名所となりました。武漢大学や青島中山公園の桜は日本軍占領下での植樹がルーツと聞いています。
梅や桃が咲いても感じることは少ない「別れ」「永訣」「諦念」を桜には感じます。この春、身近にも会社清算の直前まで在庫品販売に奮闘した人、半世紀に渡り貢献した企業グループからの離職を余儀なくされた人、そして大学での退任記念講義を務めた先輩もいます。
岐阜県の陶磁器中心の美術館で渾身の企画展を成功させ、それを潮時として職を辞した友人がいます。はなむけの言葉を綴り、併せてその友人の強い味方となってきた実業家について綴ります。多くは傍観と仄聞によるものですが「過去の共有も愉しいけど、未来を共有する関係を築きましょう」というWAA/田辺孝二教授のモットーに通じる気持ちを込めます。
福島県立美術館で開催されたアンドリュー・ワイエス展に講師として招請され、作品に漂う憂愁・哀愁・孤愁の背景についての解説やワイエスの自宅や避暑地での交流について坦々と語った人がいます。ワイエスが逝ったのが2009年なので、雪の福島での講演は干支一巡以上も前のことになります。バブル経済の頃には各地の施設がワイエス作品を目玉としていましたが、ブームが去ったあとは福島県立美術館の常設展示が孤塁を守っていると思っていました。信頼する美術館の「三密」とは無縁の会場で、味わい深い実体験に基づく話を聴けた上、今に続く交友のきっかけになったのは実に幸運でした。
その人は岐阜県や愛知県の公立美術館創設の準備室メンバーとして参画し、ベン・シャーンや国吉康夫らの米国美術研究を専門とされている事を後付けで知りました。E–テレの「日曜美術館」でのワイエス特集には欠かせないゲストとして出演し、2017年8月にはワイエス生誕100周年記念作品集を監修出版する等の第一人者としての活動を粛々と為さっていました。その人は筆者の宿願であった
ワイエスゆかりのメイン州チャズフォードへの訪問を後押しして下さり、正に筆者の夢を叶えてくれた恩人でもあります。
そんな交流の中で自然な水の流れのように埼玉県朝霞市の荒川に近い上内間木に創られた「丸沼芸術の森」とオーナーの須崎勝茂氏の存在を知ることになりました。姫路や豊橋での企画展でワイエスの「クリスティーナの世界」水彩素描シリーズを貸し出しているのが「丸沼芸術の森」であることを知り、中村音代さんら学芸スタッフがワイエス・丸沼・須崎氏の繋がりを活写した図録も入手しました。
ほどなく埼玉の須崎氏と岐阜の友人が、深い相互理解と役割分担をしている「唇歯輔車」の関係である事を知りました。
須崎氏は養父である伯父から実業家としての指導を授かり、且つ父親からは人としての生き方の薫陶を受けています。家業の倉庫業を発展させる一方で、自らも陶芸の研鑽を続け、村上隆や入江明日香ら多くの芸術家の孵卵器としての「丸沼」を運営しています。
展示会図録の冒頭に載せている謝辞には、「親愛なる須崎様(謝辞本文中略)あなたの画家 アンドリュー・ワイエス」と書かれています。遥かに年下の日本人に、当時83歳だった米国の国民的芸術家がこのように書いたのは、須崎氏が伝えた「単に購入するのではありません、多くの人のためにお預かりするのです」という言葉がワイエス夫妻に未来を共有させたからでしょう、作品を入手してから、須崎氏は約束通り米国を含めた各地へ貸し出しを続けています。
数年前に初めて丸沼を訪ね須崎氏と懇談をした時、折からの雨に傘を手当してくださった上に、朝霞駅まで自分で運転して見送って頂きました。それらの動きと車中での語り口が実に自然だったことを印象深く覚えています。
今回の展示会の講演会や閉幕式にも、埼玉から岐阜まで車で駆けつけたフットワークは正に実業家のそれであり、「趣味は美術品」の域を遥かに超えた生き方だと思います。
社会人になって間もない頃、実務には役立たない迷い人の思いを抱いていました。そんな時にワイエスの独特な写実画を知り、折から東京でのワイエス特別展で技法と世界観に触れ、小さな愁いの一部を晴らせて貰いました。それから長い時間を経て、今もワイエス作品の憂愁の世界に惹かれています。
3月11日に岐阜を訪ねた時は、館長である友人から展示の意図を解説してもらうという贅沢な体験をさせてもらいました。その時は館長の表情に心なしか憂愁の色を感じたので「陶器中心の美術館でのワイエス絵画の展示企画には内外から抵抗があったでしょう?」そして「ここの職を辞した後のことは?」という質問は控えました。
その後、丸沼に作品を返却に行き、須崎氏に御礼挨拶をしてきたばかりという友人から電話がありました。最後に、「4月から豊田市でお世話になることが決まりました、館長として」という朗報を控えめながらも明るい声で聴かせて貰い愁眉を開きました。
豊田市ホームページには3月18日付けの市立美術館館長交替の案内が掲載されており、前任の方は福島県立美術館創設の仕事を為さったあとに愛知県立美術館創設に携わったという経歴でした。
「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同」の一節がよく知られる唐の劉希夷による『代悲白頭翁』は「洛陽城東桃李花 飛来飛去落誰家」から始まります。つむじ曲がりの高校生が粋がって口にした中国語テキストのフレーズは、この詩からの引用であったことを、悲しいかな白髪ぼかしの翁になってようやく気付きました。
井上邦久(2021年4月)