十.父のこと (その3)
70年代の初頭、中米関係の扉がゆっくりと開かれ、多くの西側諸国はアメリカの歩みに倣い、相次いで中国と外交関係を樹立した。
1972年2月の米国 ニクソン大統領の訪中は特別にテレビを通じて全世界に中継されたのだが、ニクソン大統領の帰国後もその中継設備は中国に残された。それからというもの、米国に追随した多くの国の指導者たちも、その設備を借りてテレビ中継を行った。
当時の公共交通システムの車両や運転手は渉外業務に関与してはならなかった。これを「内外有別(国内と国外を厳格に区別する)」という。
ところがニクソン大統領訪中時のテレビ中継車が東単の交差点走行中に雪道によるスリップ事故を起こし、それが記者の口から広まって良からぬ影響をもたらした。
そこで関係機関は慣例を破り、市に所属する公共交通システムの中から一番良い車両と運転技術が最も優秀な運転手を選んでこの政治的任務に就かせることを決定した。私の父は当然のことながらうってつけの人物だった。
1972年の春からの一年余りの間に、メキシコのエチェベリア大統領、日本の田中角栄内閣総理大臣、オーストラリアのホイットラム首相、カナダのトルドー首相、フランスのポンピドゥー大統領など西側諸国の大統領や首脳が集中して訪中し、テレビ中継車を使ったことを覚えている。
この期間、父は大忙しだった。ほぼ毎月ある、数日にわたる中継車の運転業務は秘密厳守であり、その行動は知られてはならない。家に帰ってはならず、電話をかけてはならず、家族に手紙を書いてもいけなかったので、私の母を含め家族全員、父がどこにいるのか見当がつかなかった。
1973年4月21日、その答えがやっとでた。
その日、北京から地方視察へ出発するメキシコのエチェベリア大統領を見送りに、私は学校の生徒数百名と一緒に空港へ来ていた。
駐機場からさほど離れていない駐車場には、見送りの人々を乗せてきた深緑色のチェコ製の大型バス「カローサ」がたくさん停まっていた。
バスを降り、隊列を組んで駐機場の方へ向かって歩いていくと、駐車場のそばに完全武装の軍人が警備している白い平屋の建物が見えた。屋根の上には通信衛星に信号を送る巨大な丸いアンテナが据えられていて、ドアの前には赤と黄色の縞模様の「黄河ブランド」の大型バスも停まっていた。
近づいてみると、その車番は50571で、まさに私の父が運転している車両だった。私はこの時はじめて知ったのである。父はこの機密業務に従事していたのだ!
たくさんの緑色のバスの中で一台だけ赤いバス、他とは違うこの大型バスは自然と同級生たちの議論の的となった。
青春真っただ中であった私は、同級生たちの議論やあいづちを聞いて、顔が少し熱くなった。うれしさ、興奮、うぬぼれ、はたまた見栄?もしかしたらその全部だったかもしれない。
私は自分の口元に笑みが浮かんでいるのを感じていたが、それはほんの少しだけ口角が上がる程度で、よく見ないとわからないほどだったと思う。うれしさのあまり、口角が耳を通り越して頭の後ろまで上がってしまうのではないかと心配していたからだ。調子に乗るのもほどほどに、である。
十一.父のこと(その4) へつづく