九.父のこと (その2)
出る杭は打たれるものだし、有名になれば攻撃の目標にされやすいものだ。
注目を一身に集めていた私の父は、文化大革命中にはその優秀さゆえに多くの辛い経験をした。
「仕事にかまけて政治運動は見向きもしない」、「技術の習得ばかりを重んじて毛沢東語録の学習を軽んじる」典型であると侮蔑され、家族の過去の問題が影響して「歴史的反革命の犬畜生、党内に紛れ込んだ封建地主階級のお偉いさんの子孫」という罪名がつけられた。
そのため父は停職の上、「罪」を白状することとなり、給料も支給されず家にも帰れずに、「革命造反派」の監視を受け、「労働改造の上、その後の行いを見る」という処分をおとなしく受けなければならなかった。
昼間は車庫や便所の掃除をさせられ、夜には批判闘争を受けて、さらに「自白書」を書き、証拠材料を提出する。ある時の批判大会では、
「お前の親父が福建の周寧監獄で仕事をしていたという罪をなぜ正直に白状しないのか!」と問いただされた。
「父は私が6歳の時に病気で亡くなった。それに数千キロも離れていたのだからわかるわけない!」
造反派は私の父が自分の父親の過去の反革命罪を白状することを拒んだと見るや、徹底的に批判し、痛めつけた。
さらにひどいことに、10~15キロもするタイヤに細いワイヤーを通して父の首にかける者がいた。重いものをぶら下げたワイヤーは、首に食い込んだ。その皮下出血の跡は今でもかすかに残っている。
このような非人道的な虐待や屈辱は半年に及んだが、長時間の尋問、調査、吊るし上げを行っても如何なる「証拠」も見いだせず、造反派は、父や父の家庭のいわゆる過去の問題については結局うやむやに終わらせてしまった。
こうしてなんの結論も出ないまま、父はまたなんとなく正常勤務と日常生活に戻っていった。
政治運動で受けた激しい衝撃はいささかも暗い影を残さず、かえって仕事への情熱を掻き立てる着火剤となった。父は車両の燃費向上技術の改良について研鑽を積み、良好な結果を生み出したことは特筆すべきことである。
日常業務の他に、父は休憩時間を利用して、自分が運転している車両のキャブレターに何度となく細々とした改良を行った。燃料噴射ノズルの口径とフロート室の吸い込み量を調整し、その後の技術者による計算と検証の結果、それらはいずれもエンジンの元々の機能性や作業パラメータの技術基準を引き下げないことがわかった。また道路の状況ごとに、より効果的な運転方法を総括した。それはブレーキによるスピード制御ではなく、できるだけアクセルでスピードを制御するものであった。
絶えず改良し、総括し、改善を行った後、父の運転する車両は北京市の同型車の中で最も燃費の良いものとなった。
この改良の効果は広く普及させる価値があるのかをさらに検証するため、会社はバスを一台選んで父に改良させ、数カ月の試験運転を行った。会社の中で燃費が最も悪く「ガソリン食い」だった車両が、燃費のよい従順な子猫のような車へと変貌する結果となった。
費用がほとんどかからないこの小さな改革は、全社の各車両チームの試験運転でも満足のいく成果が得られた。そしてこの改革は全北京市の公共交通システムへと普及され、同じ型のエンジンには新しく改良された燃費基準が設定された。
これは私の父が一つの仕事をやり通し、愛し、研鑽を積んだ物語である。
十.父のこと(その3) へつづく