【挿隊的日子~下放の日々~】(13)その2 【最終回】

13.「河之戦」~河川工事の戦い~ ②

 

隊長は意地汚い猫のように、肉の匂いに釣られてやって来た。

うれしさのあまりに元々小さい目をさらに細め、少し大げさな言い方をすれば、靴ひも一本で隠せるくらいだった。

この時の私は、生産隊における大功労者である。

「自慢じゃないですが、私でなければ無理でしたよ」

隊長は急いで肉を運ばせながら、

「そのとおりだとも。これがお前の実力ってもんだ」

と言った。これは私の機嫌をとるための言葉ではなく、うっかりと口から出てしまった本音だったと思う。

調理し終えた豚の頭は数に限りがあるため、男性公社員には一人あたり一つずつ、女性公社員は「知識青年待遇」で、二人で一つの配分としたが、これには女性公社員から不満が出た。

「仕事の時は“女性は天の半分を支えている(毛主席語録)”と言ってる癖に、肉を食べる時になるとどうして四分の一になってしまうわけ?」

隊長はすぐに反論した。

「お前たちは計算ができないのか?二人で一つなのがなんで四分の一になるんだよ。屁理屈をこねるな」

肉をしっかりと食べて、工事現場の人々はさらに仕事に力が入った。

公社員たちは本当に良く食べ、その量ときたら目を見張るものがあった。大きな肉まんじゅうをがつがつと9個も食べ、さらにトウモロコシ粥をどんぶり一杯流し込み、そして口を拭ってさっと工事現場の人の波に戻っていく人もいた。

公社員たちは本当に仕事ができ、その力の強さといったら驚異的である。おなか一杯に食べた人たちは、ニワトリの血を注射したかのように極度に興奮していた。

公社員の家族単位のチームは、毎日ノルマ以上の任務を達成していた。

困難な時に一番頼りになるのはやはり家族である。

彼らは共に邁進し、共にふざけ合った。手押し車も彼らの手にかかれば訳もなく、積んでいるのは山のように重い砂泥ではなく、綿花であるみたいだった。

親切な公社員は、自分のノルマが終わった後、よく私たち知識青年の手伝いをしてくれた。彼らの仕事ぶり、彼らの作業量、彼らの人となりは、毎日の驚くべき食事量を納得させるものであった。

毎日夜になると、食事を終えた人々はあまりにも疲れすぎて、歯を磨いたり顔を洗ったりする気力すらなく、各自の「個室」へ戻り、着の身着のままで眠りについた。

せいぜい月水金はそのまま、火木土は乾いたタオルで拭くだけ、そして日曜日にはちゃんと洗うというくらいだったので、何日もしないうちに顔についた泥は汗と混じってカピカピにへばりつき、フケのようにポロポロを剥がれ落ちた。真っ白だった歯も黄ばんで、歯茎にトウモロコシがくっついているようだった。

こういった変わりようにも私たちは構う余裕がなく、狭苦しい「個室」の中で夜更けから夜明けまでを過ごし、工事現場では太陽が上る頃から、月が出るまでを過ごした。

この毎日の繰り返しの中、私たち知識青年たちは、ついにすべての荷物をまとめて公社にもどり、会議に参加するように、と告げられた。

会議に出席するすべての者が、それの意味するところをはっきりと認識していた。

 

農村での、知識青年としての下放の日々は終わった。

この2年9カ月の辛かった過去を思い返す度、なぜかある種の恋しさ、切なさがこみ上げてくる。そこで汗と涙を流し、苦労と努力をし、そして身体や意思、忍耐を鍛えたのだから。

困難に直面しても弱気にならないことは、下放生活の中で得た一生の宝物である。「上山下郷」運動というものを味わっていれば、どんなことにも対処できる。

今、42年前の麦畑や田んぼは中国映画博物館の一部となっている。かつての野菜畑や農家も、不動産開発公司によって、徐々に建売住宅へと変えられている。

そこに住んでいた農民は、立ち退き補償で100万元、1000万元を手に入れ、大金持ちになった人も少なくない。当時の人民公社の隊長や書記は、不動産公司の董事長へと華麗に変身し、当時の素寒貧も、今では大富豪だ。

これが、かつて私が下放生活を送っていた場所に起こった凄まじい変化である。それでも懐かしさが自然と湧き上がってくる。

この地の人々の生活がより幸せで、素晴らしいものであるよう心から祈っている。

(了)

(2018/08/29掲載)