【挿隊的日子~下放の日々~】(12)

12.「時来運転」~チャンス到来~

農村での時間は怒涛のごとく過ぎて行き、一心不乱に前進していくうち、瞬く間に1977年の秋になった。

人民公社の放送ステーションの大型スピーカーから、10年間中断していた大学入学試験が再開されるとの情報がもたらされた。

知識青年たちは誰もが一日も早く農村を離れることを夢見ていた。このビックニュースを知り、大学入試資格があるとわかっている私たちはもちろん興奮した。

運命を変えるこの「わらしべ」をしっかりとつかまなければならない。冷静さを取り戻すと、私たち大学入試に参加する者は、参考書や以前使っていた教科書をそれぞれ探し出してきた。

実のところ、私たちの学年は文革の産物であって、まったくもって文化や知識を系統立てて学んでおらず、しかも基礎もしっかりしていなかった。まして、きつく忙しい農作業は、私たちを「記憶力より忘却力が勝る」ように変えてしまっていた。

もともと少なかった知識は、学校を離れる際、すべて先生に返上してしまっていたのだ。1966年、67年、68年に高校を卒業した私たちの学力は、現役生と比べてひどく劣っていた。死に物狂いの力を出したとしても、必ずしもうまくいくとは限らない。

でも、やり始めたからにはやり遂げなければならない。急場しのぎでやってもいくらかの役には立つというではないか。だったらまじめに必死で勉強しようじゃないか。結果はどうあれ、その過程が重要なのだ。

試験の一カ月ほど前に、受験予定者の私と仲間の3名は、人を通じて数学の補習を受けられる学校を見つけることができた。ところが、生産隊からは補習を受けるのは構わないが農作業に影響しないこと、という条件が出された。

そこで外部で補習を受ける私たち4名は、勉強も農作業もどちらもおろそかにできなくなった。

朝5時半に起きて、20キロ以上離れた北京航空航天大学附属中学に向けて出発する。自転車は2台しかないので、一人が漕ぎ、一人が後ろに乗って、何度も交代しながら学校へ到着する。

8時から10時までの補習授業が終わると、風にように大急ぎで村に戻り、農作業に影響がないようにし、私は急いで夕飯と翌日の昼の主食の準備に取り掛かった。夕飯を済ませると、私たちはまた集まって、暗い電灯の下での補習授業のノート整理や内容の消化、その他の科目の練習問題の勉強は夜中まで続き、夢の中でまで復習をしている者もいた。

あの時の私たちは「ニワトリよりも早く目を覚まし、犬よりも遅くまで起きていた」。それはもしかしたら、これまでニワトリや犬を「連れて行ったこと ※11話を参照」への罰だったのかもしれない。

連日の補習復習で、私たちは目に見えて痩せて行った。今思うと、もし自分で自分を痛めつけたかったり、ダイエットしたかったりするのであれば、大学入試に参加すればいいのだ。これはどんな下剤や処方よりも効果的な方法だ。

補習と農作業の二重生活は大学入試の前日まで続いた。詰め込み式の復習では、試験の内容を理解し消化吸収することは不可能で、浅く広く、ですら容易ではなかった。

12月11日、どんよりとした空にはちらちらと雪が舞っていた。

「瑞雪」と言うほどではないけれど、この雪が、私の心の中のあきらめムードを追い払い、幸運をもたらしてくれるよう、私は幸福村第一中学の試験会場で祈った。

私は今でも当時の試験問題を覚えている。

例えば、政治の試験では、「マルクス主義の基本原理とは何であるか」、フランス語では「フランスの国土面積(55万平方メートル)をフランス語で書け」、数学の幾何学の証明問題は「既知条件にもとづいて正三角形の三つの辺が等しいことを証明せよ」、歴史と地理では「上海港から出発しロンドン港へ至る最近の海上航路で通過する海、海峡、運河の名称を書け」。

国語の作文の題名は、受験生一人一人の心に刻み込まれたもの、『私のこの一年の奮闘』であった。この作文の題名はスローガンくさいので、むしろ、さまざまな職業についている受験生たちに、この一年来の困難に打ち勝った感情を述べさせた方がよかったと思う。

その時の570万人を超える受験生の中には、30歳を過ぎている者、子供の父親、母親である者、工場の労働者、軍隊の軍人、農村の農民、下放している知識青年、それに在学中の現役生たちがいた。いろいろな階層や教育レベルの者が、同じスタートラインに立ち、同じ目標に向かってラストスパートをかけたのだった。

試験は終わった。

合格点に3点届かず、私は大学入学のチャンスを失った。

私たちの知識青年宿舎からは4名が合格した。

私はと言えば、合格ラインに近かったため、中等専門教育機関である警察学校の面接への参加が許可された。

クイズみたいな質問をされたことを覚えている。「ほうれん草が店頭に並んだ。一斤いくらか?」。答えは「何が店頭に並んだとしてもすべて百銭」。なぜならば、一斤は十両で、一両は十銭だからだ。

面接に合格すると、親の同意が必要だという。考えがまとまらないまま、宣武門の分局で長年警察の仕事に携わっている伯母に、警官になるべきかどうか意見を聞きに行った。

伯母と長いこと話しをし、その忠告を受けて、私は警官の制服を着る機会を放棄した。

人生のレールはこれによって軌道が変更された。

「知識が運命を変える」と、よく人は言う。大学に行けば運命を変えることができる。でも勤勉に努力しさえすれば、大学に行けなくても運命は変えられるのである。大きく変えることができないかも知れないけれど、人生を豊かにすることはできる。

大学入試を経験したことのある人は、不撓不屈、どんな困難に直面しても胸を張り、顔をあげていられる。間違いない。

(2018/06/25掲載)