【挿隊的日子~下放の日々~】(1)

『 1976年3月25日は私が農村に下放した日であり、思い出深い日である。

毛沢東主席の『水調歌頭・重ねて井岡山に上る』の一句「過ぎ去ること三十八年、指を弾く一揮の間」を引用するとしっくりくる。当時のスタイルでこの文章を書いていくとしたら、始まりはこうでなくてはならない。「偉大なる指導者毛主席は『知識青年は農村へ入り、貧農、下農、中農の再教育を受けることは非常に必要なことである。農村の土地は広大であり、そこでは力を大いに発揮できるのだ』と、我々を指導しておっしゃった」と。私たちは史上前例のないプロレタリア文化大革命を経験した時代の人間であり、史上前例のない「上山下郷」運動を経験した時代の人間である。

あなたは農村へ行き、そこで生活し、労働したことがありますか?あなたはかつて「上山下郷」した知識青年ですか?もしあなたがそういう人生の鍛錬を積んだことがないのであれば、当時、全国の何千何万もの知識青年の群れの中にいた私たちが農村でどのように「大いに力を発揮した」のか、どうぞお聞きください。

1.「新来乍到」~新参者

それは雪交じりの雨が降る早朝だった。

我が高校の200名を超える「出身が良く革命的な」卒業生を満載し、「いもむし」と呼ばれていた何台ものチェコ製バス、カローサが、大寨路、星火路に沿って東北東の方向へ走っていた。

20分ほどして、一部の者が朝陽区東壩中独友好人民公社の講堂の前でバスを降り、残りの者は引き続き先へ進んで行った。公社の講堂での簡単な歓迎会の後、私たち男女10人ずつ20人の知識青年は、后街生産大隊の知識青年上山下郷弁公室の責任者に連れられて宿舎へ向かった。自分たちの荷物や布団を載せた馬車の後にくっついて、ぬかるんだでこぼこ道を苦労して歩く私たちが生産大隊の宿舎へ入っていくのを、農民や先輩の知識青年たちが農作業の手を止めて見つめていた。

宿舎は四棟の平屋で、炊事場、会議室と寝泊りする場所で構成され、これが私たちの「三集中一分散」生活の場であった。つまり、学習、食事、休息を一カ所に集中し、労働は各生産隊へ分散して行うのだ。こうして、別の学校から先に来ていた先輩知識青年88人に私たち20人が加わり、後に、不名誉な評判が遥か彼方にまで聞こえ、生産隊や公社の社員たちをハラハラ、ヤキモキさせることになる、『水滸伝』張りの108人が集まったのである。


夕飯後、大隊は会議を開き、私たち新参者の知識青年と社員たちの顔合わせをすることになっていた。

会議開始の鐘の音と共に、私たちは時間どおりに大隊本部へ到着した。けれども1時間たっても公社の社員は姿を見せなかった。時間を間違えた?それとも鐘の音を聞き間違えたかな?と疑い始めたその時、黒い綿入れの上着と裾を絞った綿入れズボンを身につけ、綿入れの防寒靴を履いた老人が、木に吊るしてある、短く切った廃レールを金槌でひとしきりガンガンと叩いた。

今度の催促の鐘の音は果たして功を奏し、すぐに社員や先輩知識青年たちが三々五々、慌てず落ち着いた足取りで四方から集まってきた。人はどんどん増え、暖房付の寝床、炕(カン)の上に胡坐をかいたり、地べたに座り込んだりしている。男の社員たちは火のついたタバコを手にし、女の社員たちは忙しく縫い物をしながら、ぺちゃくちゃと近所の噂話をしていた。自家製の葉タバコを持ってきている人もいて、タバコが吸える知識青年にイケるかどうか勧め、新聞の切れ端や専用の巻紙(100枚入りで値段は三分(サンフェン))で、手巻タバコの作り方を実演していた。

雑談の中で私たちが1時間も会議の始まるのを待っていたことを知ると、「村の会議は君らの学校の授業とは違うさ。ここでの習慣は7時の会議は8時に集合、9時から報告開始だよ」と教えてくれた。この説明で疑問が解けた。その後の会議の時、私たちがこの習慣を見習ってみると、確かに待ちぼうけを食うことはなかった。

話しているうちに、大隊長が黒い綿入れをひっかけ、左手にホウロウのカップを、右手には火の粉がちらちら見えるキセルを持ち、わきの下には表紙が硬いノートを挟んで、鼻歌を歌いながらふらりふらりと部屋に入ってきた。机の前の長椅子に足を組んで腰かけると、タバコにむせたのか、隊長の見栄を張ったのかわからないが、空咳を2回した。

「会議を始める。今日、新たに20名の知識青年がやって来た。つまり、丈夫な労働力が20加わったということであるが、メシを食らう口が20増えたということでもある。働き手が増えたのは良いが、その分メシも食うんだからな。」

そして、机の上のノートを広げ、点呼を始めた。私たちは名前を呼ばれた順に立ち上がって、社員や先輩の知識青年にお辞儀した。点呼の後、隊長は続けて言った。

「俺は教養がないから、言葉もぶっきらぼうで、無愛想で、奥歯に物が挟まったような言い方はしない。はっきり言って、俺たちの公社は全区の公社の中でも『三大貧乏公社』の一つだ。つまり、東壩、金盞、楼梓荘だ。もちろん、俺たちと大差ない、同じような苦しい状況なところは他にもある。『三大ゴロツキ公社』の洼里、大屯、来広営だな。俺たちはみな評判の良くない『八厘(パリ)公社』の一員だ。」

音だけ聞いていると、大隊長の文化水準は意外と高いじゃないかと勘違いした。中独公社の大隊長が遥か彼方の『パリ公社』のことを知っているとは思わなかった。説明を聞いて分かったが、大隊の労働点数は一分(イーフェン)に足りない八厘(パリ)であり、「八厘(パリ)公社」とは、あの「パリ公社」(La Commune de Paris)ではなかったのだ。

 少し脱線するが、私たちは曲がりなりにも学校でフランス語を5年も学んだ高卒なわけで、「パリ・コミューン」のことも少しは知っていた。世界史の教科書にも、パリ・コミューンの詳しい説明が載っていた。1871年3月18日、パリの労働者が武装してバスティーユ監獄を攻撃し、60日余りの政権を樹立したのだ。これは社会主義の萌芽と見られている。『人民日報』は1971年 3月18日に、パリ・コミューン100周年の際に『パリ・コミューンの原則は永遠に』と題した社説を発表した。

話しを元に戻そう。

隊長は続けて言った。「俺たちの大隊は具体的に言うと、食糧の総生産量で黄河を追い越すこともやっとなんだ。長江を追い越すなんてことは考えるな」。

つまりは、その年の全国農業発展綱領に生産量基準は、北方地区では1ムー(666.7㎡)あたりの年間生産量250㎏で、これは黄河以南の生産量基準を超えることに、400㎏に達すれば長江以南地区の生産量基準を超えることになった。当時の北京近郊の単位面積生産量は夏と秋の二毛作で、黄河を超えることは普通のことだったし、長江を超えることも珍しいことではなかったが、私たちの大隊は生産量が低過ぎて、農業税を穀物で納める任務の完了も難しく、売ることができる残りの食糧はさらにあまりに少なかった。

これが私たちの労働点数が低い主な原因だった。「八厘(パリ)公社」はここから来ているのである。3年近くにおよぶ農村での下放生活の中で、毎年春節前は、社員と知識青年が互いに顔を見合わせてボーナスを待ちわびる日ではあったが、1年間懸命に働いた私たちは、幾らもらえるのかを楽しみにするよりも、食べる分を差し引いた後、自分が大隊にあと幾ら借りがあるのかを聞く方が早かった。国から知識青年に支給される手当の他に、私たちの大多数は家に帰って両親から小遣いをもらい、穴埋めしなければならなかった。ボーナスの旨みは、ついぞ味わうことはできず、毎年やるべきことと言ったら、埋め合わさなければならない「穴」が浅いか深いかを知ることだけだった。

どうすることもできない貧窮は、今でも忘れられない。

農村での生活が長くなるにつれ、私たちと公社員の関係は親密になり、会話の中から学校では聞いたことのなかった沢山のことを知ることができた。

3年にわたる自然災害(1959-1961)とその後の数年間の中国とソ連の関係悪化は、ひもじさに耐えての債務返済と飢饉が重なり、我が国に空前の災難をもたらした。人々の生活はさらに厳しくなり、飢えをしのぐため、当時、地面の食べられる草は伸びる前に人間にむしりとられ、木の上の葉も育つ前にしごき落とされてしまった。

とにかく、その頃は、地面には草など一本もなく、木にも葉は一枚もなかった。食べられるものであれば何でも食べた。穴の中の鼠すら助からなかった。暴威をふるう災難によって、人々は顔色が悪くやせ細り、何千何万の都市住民は飢餓と栄養失調によりひどく浮腫み、命を落とすものもいた。

私たちもこのような日々を体験してはいたが、まだ子供だったのでそこまで印象深くない。いずれにせよ、都市の市民、特に北京の市民は全国のその他都市の住民と比べればかなり幸運だった。これは北京が首都という特別な地位だからでもあるが、もっと重要なことは全国人民の貢献と犠牲があったからなのだ。

飢餓を経験したことのある人だけが、しかも腹がすき過ぎて目から星が飛び、気力を失ったことのある人だけが、衣食が満ち足りることがどんなにありがたいかを理解できるのだ。今日、私たちは飢餓がかつて人々に与えた被害を忘れ去っている。しかし、米の一粒一粒がまさに大事にすべき尊い命であることを決して忘れてはならない!

(2017/05/29 掲載)